戦争当時、三重県には地下工場が8ヶ所(海軍4、陸軍4)造られていました。このうち7ヶ所で戦争遺跡が確認されています。地下壕の内部は危険であり、コウモリなどの生息地でもあります。個人の判断で立ち入るのは避けましょう。
また、各地の軍事工場・軍事施設は物資保管のために民間倉庫を転用したり、地下式や半地下式の疎開倉庫を造ったりしました。ここでは現存している、転用倉庫を除く地下式・半地下式の疎開倉庫を紹介します。
(最終更新は2024年4月13日です。亀山と津の地下工場を更新しました)
第二海軍燃料廠は石油精製をするために1941(昭和16)年に操業しましたが、アメリカ軍の空襲により壊滅します。
空襲を避けるために、工場の西の丘陵に造られた「山の工場」は1944年に一部操業してロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」の燃料を製造しました。地下壕を掘るために多数の朝鮮人労働者が動員されています。
また西日野町には、ポンプ施設とされる建物のコンクリート基礎、泊村には工員宿舎、笹川にも移築された工員宿舎が残っています。泊村の工員宿舎近くには1945年7月24日に模擬原爆パンプキンが投下された事実も明らかになっています。
これまでに貯蔵用地下壕が5本確認されています。どれもコンクリートで頑丈に作られています。また戦後に、安全のために入り口が封鎖されています。
不動院直下の斜面に6本の地下壕が現存しています。
この地下壕は1943年の11月頃から陸軍が地域の方を動員して掘り、完成後は旋盤や工作機械を入れて軽機関銃を作っていました。軽機関銃を作っていたのは、国民学校を出たばかりの子どもや、さまざまな理由で兵隊になれない40~50才ぐらいの方たちで、10人余りの陸軍の兵隊や技官に指揮されていたそうです。
この地下壕の800m東方には、大規模な地下工場(森地下工場)がありましたので、その分工場の可能性もあります。
鈴鹿海軍工廠(鈴鹿市)が造った疎開工場で、1945年4月から13ミリ機銃(爆撃機後部に着ける旋回機銃)の生産が始まり、敗戦直前に弾を造る機械も運びこまれました。地下壕建設には多くの朝鮮人労働者が動員されました。
地下壕は14本すべてが残っていますが崩落が進んでいます。水没している壕もあります。
近くには汽缶場の煙突、水をくみ上げるためのポンプ、コンクリート製貯水槽、風呂の基礎、軍事道路跡などが残っています。
2024年3月に亀山市が説明板を設置しました。
地下壕内部は危険ですので、立入らないで下さい。
津市半田・青谷周辺の丘陵では、近世から磨き砂が掘られていてたくさんの坑道が残っていました。戦争末期に坑道を転用あるいは新しく掘って、三つの地下工場が造られました。半田地下工場には住友金属(プロペラ)、久居地下工場には三菱重工業(エンジン、機体)が入り、どちらも津海軍工廠のグループとして稼働しています。他に愛知飛行機が津地下工場を作っていた記録がありますが、詳細は不明です。
現在も広い範囲に多くの磨き砂採掘坑が残り、コンクリートの床や壁面へのコンクリート吹付けのある所が地下工場に転用されたと考えられます。
コンクリート床には機械の台座も作られていて、綿密に機械の置き方を計画していたことがわかります。
現存する地下工場は、県内の地下工場では最大で、内部もよく残っていますが、三つの地下工場のどれに該当するのかは不明です。全貌の解明が待たれます。
地下壕は崩落や浸水している部分もあり、崩落した下を地下水が激しく流れているなど、非常に危険な所もありますので立ち入りはお止め下さい。
なお涼風荘(津市半田)では、久居地下工場の一部を食堂に転用されています。安全に見学できますし、地下壕の中で食事をすることもできますので、見学を希望される方は涼風荘にお問い合わせ下さい。
伊勢市市浦口町を二俣町を結ぶ天神丘トンネル。今は車が走る市道ですが、かつてここは伊勢電気鉄道(いせでん)の線路でした。
伊勢電は三重県の桑名と伊勢を結んでいましたが、1942年に松阪と伊勢の間が廃止されました。その後、使われなくなったトンネルの内部に旋盤などを入れて飛行機の部品を作っていました。
さらに西側の秋葉山トンネルも地下工場にするための工事がされたという話もありますが詳細不明です。
四日市市西日野町の南部丘陵公園に接する農園にコンクリートの基礎が残っています。これは半地下式倉庫の基礎です。
鈴鹿市稲生町に残っている鈴鹿海軍航空隊の半地下式倉庫の基礎とよく似ていて、平行する2本の基礎からドーム状に鉄などを出して屋根にするものです。
ここは、南側の基礎が消滅していて、北側のみが残っています。基礎の中央が少し離れているので、2棟あった可能性もあります。
コンクリート基礎から鉄骨が何本も出ていることもわかります。
亀山市三寺町の山裾に全長約22mの地下壕が現存します。壕の東側に地下壕の痕跡が2ヶ所ありますが、地域の方によると深い壕は1本だけで、残りは掘りかけだったそうです。
三寺町のお寺に海軍が駐屯し、トラックで魚雷を何度も運び、スクリューなどの検査をしていたそうです。
この地下壕も魚雷を隠すために掘られましたが、未完成のまま敗戦を迎えました。
弘法寺の山中にY字型の地下壕が残っています。東西に約30mの地下壕が貫通していましたが、現在は東側入り口は崩落しています。西側入り口から入ってすぐ北側に約30mの地下壕が作られています。
この地下壕周辺で海軍の部隊がトロッコを使って地下壕を掘っていて、近くにL字型をした地下壕があったこともわかっています。また、別の場所でも地下壕の痕跡と考えられるものもあります。トロッコの軌道が道路として使われている所もあります。
海軍が何を保管するために地下壕を掘っていたのかは不明です。
海軍の部隊は弘法寺の民家に分宿していました。戦後、トロッコのレールは弘法寺地区に運んで再利用しましたが、1本だけ現存しているのは貴重です。
JR下庄駅から南に伸びる谷に、南北に貫通する地下壕が残っています。地下壕は全長53mで、南入り口は崩落していますが、内部はほぼ完存していて貴重です。
この地下壕は弘法寺の地下壕からも近いので、海軍が掘った可能性が高いですが詳細不明です。
この地下壕の近くに朝鮮人労働者の飯場があり、飯場の子どもたちが地域の小学校の教室に入りきれず、廊下で学習していたという証言もあります。
朝鮮人労働者と地下壕の関連性が考えられます。
本土戦のための特攻用飛行場として造られた水上飛行機の飛行場で、水産試験場を転用しました。
飛行場の遺構は残っていませんが、近くに2本のコンクリート製の地下壕があります。
地下壕Aは、戦後アメリカ軍が爆破していったそうで、内部の天井が破壊されています。(右写真)
地下壕Bは、入り口がコンクリートで四角形にされていて、入り口には扉をつけた跡があります。
地下壕周辺はマムシが多いそうなので、冬以外に見学する時は細心の注意をして下さい。
中村山の地下壕は尾鷲市中心にある中村山にあり、尾鷲小学校に隣接して地下壕が掘られています。
掘ったのは熊野灘部隊です。熊野灘部隊は1944年1月に第三海上護衛隊の一つとして編成され、海防艦「駒橋」をはじめ、駆逐艇や爆雷艇など8隻が配備されていました。開設当初は海岸に司令部がありましたが、同年12月の東南海地震による津波で壊滅し、尾鷲小学校に司令部を移しました。中村山地下壕は司令部移設時に造られたと考えられます。
内部はほぼ完存していて崩落も少ないですが、一部に小学校や地域から棄てられたゴミが堆積しています。入口は施錠されているので、内部の見学には市の許可が必要です。
非常に保存状態の良い大規模な地下壕で、歴史的な意味も含めて大変貴重な戦争遺跡です。
なお、市内には熊野灘部隊の慰霊碑や、海防艦「駒橋」の艦首紋章が残されています。
この地下壕は野戦病院としても使われました。
1945年7月28日。朝の6時前から熊野灘部隊は米英海軍の艦上機による攻撃を受け、攻撃は夕方6時頃まで続いて部隊は壊滅。即死者72名を含む147名の戦死者が出ました。
負傷者は尾鷲小学校(当時は国民学校)の教室に収容され、地下壕の中でも治療がおこなわれました。治療とは言え、医師や看護師も少なく消毒程度だったようです。国民学校高等科の女生徒(13~14才)も負傷者の治療や運搬に動員されました。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。