戦争末期には「本土決戦」のために、全国に本土戦陣地がつくられました。
三重県では志摩半島を中心に多くの本土戦陣地が残っています。
銃眼のあるコンクリート製のトーチカも、志摩半島を中心に13基が確認されています。
(1)国府白浜陣地群(志摩市)
①沿岸部
アメリカ軍の上陸地と想定されていた国府(こう)白浜の丘陵部には多くの陣地群があり、壕などが残っています。
トーチカは一つ、田ノ浦地区で確認されていて、岩盤に方形の穴を作り、海岸に面する正面と側壁をコンクリ―トで固めてあります。全長4.3m、正面幅2.8m、内部の高さは2.4mです。正面のコンクリートの厚さは1mで、銃眼は一つで機関銃用と考えられます。
国府白浜の丘陵部にあるトーチカはこの一つのみで、他にトーチカ建設予定地と考えられる場所はあるものの、市後海岸~立神地区のトーチカ群に比べると作業の遅れや貧弱さを感じます。上陸想定地になぜ、トーチカなどの装備が少ないのか、理由は今のところわかっていません。
トーチカの背面は3mほどの地下壕になっていて入口は上からの崩落で狭くなっていますが、内部に入ることはできます。
天井面や側面は岩盤に守られているためかコンクリートの厚さは40cmほどで、東側面は10cmしかありません。
岬を貫通する15mの地下壕の先端に強固なトーチカが作られています。銃眼は一つで機関銃用と考えられます。天井部や側壁のコンクリートの厚さは測定できませんが、正面の銃眼部のコンクリートは1mの厚さがあります。銃室の広さは2.4m四方あります。
さらに銃眼の外から岸壁までは3m弱のコンクリート側壁が作られ、砲弾などの被害を減らすためにコンクリート側壁は4段になっています。先端部を外から見ることは、断崖なので無理です。
地下壕型トーチカとしては、越路陣地(築地のトーチカ)と並んで志摩地域の典型と言えます。
また、トーチカ西方の見宗寺の南側崖面にはコの字型の地下壕が1基残っていて、棲息用の地下壕と考えられます。トーチカ北西160mの海岸部にももう1基トーチカがあったそうですが、開発により消滅しています。
片倉陣地は甲賀漁港西側の山林にあり、地下壕2本が残っています。
このうち、「橋本の壕」として三重県の近代化遺産に登録されている地下壕はコの字型の地下壕で、東南部がL字型に延長されています。東側の入り口はゴミなどで封鎖されています。西側通路も入り口が崩落して少し狭くなっていますが、内部は完全に残っていて貴重です。
「この地下壕には大砲が入れられていて、撃ったら中に引き込んでいた」という証言があり、西側通路の幅が広く作られている構造からも可能性を感じます。
棲息用と攻撃用を兼ねた地下壕だったかも知れません。近くの沿岸部には、幅が非常に長い銃眼のあるトーチカがあったそうですが、護岸工事で消滅しており詳細は不明です。
小山(こやま)陣地は市後浜の北端にあり、ト―チカは全長4.75m、幅3.3mです。銃眼は一つで銃眼部のコンクリートは厚さが1mあります。機関銃用のトーチカと推定されます。
トーチカの上部とコンクリートの基礎の角度がずれているのは、構築の途中で角度の変更がおこなわれたのでしょう。
トーチカの背後には地下壕などの痕跡が残っています。
この陣地は市後浜をはさんで市後陣地とリンクしていて、双方から市後浜に上陸するアメリカ兵を射撃する計画だったと考えられます。
このトーチカは海水浴場駐車場のすぐ横にあり、見学に最適です。内部にも入れますが、土砂が流入しているために入り口が狭く急になっているので注意して下さい。中から外に出る時に天井部で頭部や顔面を打つ事故も多いです。
市後(いちご)陣地は市後浜の南端にあり、トーチカは全長6m、幅4mです。銃眼は一つで、銃眼部のコンクリートの厚さは0.95m、側壁の厚さは1mあります。機関銃用のトーチカと推定されます。入り口が土砂で埋まっているため、内部には入れません。
市後浜に上陸するアメリカ兵を、南からはこの陣地が、北からは前述の小山陣地が攻撃する計画だったと考えられます。
最近トーチカの周囲が開発され、景観が大きく変わりましたが、幸いトーチカは破壊を免れました。
ただ、畔名神社とトーチカの間にあった通路用の地下壕は消滅しました。
畔名神社にも地下壕掘削のための別の掘り込みが残っています。
②内陸部
大加賀陣地のトーチカは、後述する叶小路(かなこじ)陣地のトーチカに構造がよく似ています。
ただ、叶小路陣地のトーチカに比べて作り方が簡略化されている印象があります。銃眼は二つです。
全長5.65m、幅5.85mで、コンクリート壁の厚さは銃眼部で1m、天井は0.6mです。機関銃用のトーチカと考えられます。
トーチカから約70m北方の丘陵北斜面には地下壕の入り口部分が残っています。地下壕は南方に伸びていたと考えられています。
このトーチカは土に埋もれていないため、外見の全容を見ることができます。ただ、山林の中にあるために見つけにくく、雑草も繁茂していますので、見学には注意が必要です。
トーチカは全長5.5m、幅3.5mで、内部は2室に分かれています。機関銃用のトーチカと推定されます。
銃眼が二つあり、当時の幹線道路(現在の国道260号線)をほぼ正面から射撃できるようにつくられています。コンクリートの厚さは銃眼部で約1m、側壁は0.5mです。
トーチカへの入り口は正面に向かって左側の側壁につくられ、そこから約6mの交通壕(塹壕)が続いています。トーチカ内部には砲弾を保管したと考えられる小部屋も作られています。
かつては見学に適したトーチカでしたが、最近は周囲の耕地が荒れたことで野良道にも雑草が繁茂し、近づくのが難しくなりました。
叶小路(かなこじ)陣地には、機関銃用と考えられるトーチカ1基と、通路用地下壕(塹壕)が残っています。トーチカの全長は5.5m、幅5.65mです。銃眼は二つで銃眼部のコンクリートの厚さは0.88mです。内部にも入れます。
なお、トーチカは当時の幹線道路(現在の国道260号線)を狙っていますが、西側銃眼の前の地面
は削平されているのに対し、東側銃眼の前は全く削平されていないので射撃ができない状態です。
このことからトーチカは未完成のまま敗戦を迎えたと考えられます。トーチカ北側から伸びる奥行約7mの地下壕も未完成のまま終わっていて、陣地全体も未完成だったのかも知れません。
このトーチカは山林の中にあるため見つけにくく、見学には注意が必要です。
トーチカ1基が残っていますが、農免道路の建設により北側半分が破壊されています。もともとコの字型のコンクリート側面で天井もついていましたが、破壊により現在はL字型になり、天井も外れています。
銃眼は北側、東側、南側にありましたが、現在完存しているのは南側のみで、東側の銃眼は破壊により半分だけ残っています。銃眼が3つあるトーチカは志摩半島では珍しいです。
機関銃用のトーチカと考えられます。
残存部の長さは東西2.95m、南北約2mで、コンクリート壁の厚さは0.8mです。
農免道路を見下ろす位置にありますが、急斜面を登るのは困難で、見学するには背後の山林から回り込む必要があります。比較的見学しやすいトーチカですが、山林の中にありますので注意は必要です。斜面ではトーチカの基礎部分を断面で見ることができます。
この陣地には機関銃用と考えられるコンクリート製の銃眼と塹壕状の遺構が残っています。塹壕状の遺構は東西約18m、南北約35mの範囲に及び、全体の形はジグザグになっています。残りもよく貴重です。
塹壕状遺構の南端の土壁にコンクリート銃眼が造られ、土に埋まっているためにコンクリートの厚さは不明ですが、銃眼の大きさは幅1.22m、長さ1mです。
銃眼付近は坑木を組んで坑道状になっていたと考えられます。銃眼のみコンクリートで造られたトーチカは立神地区ではここだけです。
(2)築地陣地群(志摩市磯部町)
越路陣地は築地地区の北200mにある丘陵に37mの地下壕を掘って南北を貫通させて、その南端に機関銃用のトーチカを造っています。地下壕の残りも非常に良く貴重です。
地下壕の北入口もほとんど崩落がなく、築造当時の様子がよくわかります。入口付近は斜面を深く切り通して通路を造ってあり、爆風を避け入口を発見されにくくするためと考えられます。
築地陣地群は、米軍上陸想定地の国府白浜から伊勢神宮へ抜ける峠近くにあり、水際部隊の最後の戦闘地とされていたのかも知れません。
トーチカは地下壕の先端に造られ、奥壁はなく地下壕に続いています。コンクリート部分の幅は2.4m、奥行きは2mです。
参考文献:山本達也「三重の軍事遺跡(1) 志摩市磯部町の陣地群について」『軍装操典第95号』(2009)
(3)志摩市志摩町
波田陣地はキャンプ場として知られる阿津里(あづり)浜を南西方向から狙う機銃陣地壕です。
壕の入り口付近は5mも掘り下げられていて、そこから約15m坑道を進むと銃室が作られ、浜に向かって銃眼が開けられています。銃眼にコンクリートは使われていません。
内部は良く残っていますが、壕の入り口付近は戦後に周囲を埋め立てた土が流れ込んで、入り口が狭くなっているため、内部に入るのはやや困難です。
周囲には10基の古墳からなる「野里の岬古墳群」がありますが、この坑道式掩体を作るために墳丘の一部が掘削されています。
野里浜(のりはま)陣地は、野里浜古墳群南端の円墳の墳丘を利用して造られています。
直径15mほどの墳丘の北側と南側から壕が掘られていて、南側の壕の方向が波田陣地の背後の浜を向いています。
おそらく、波田陣地を背面から攻撃された時のための機銃陣地と考えられ、北側から坑道に入って南側に銃座を作ろうとしていたのでしょう。
壕は貫通しておらず、未完成だったと考えられます。
志摩町最高峰の金毘羅山の山頂付近には多くの陣地跡が確認されています。
山頂付近の公衆便所の東裏の尾根上に交通壕(幅0.7m、長さ約10m)があります。
便所から北側に下りると地下壕2本がありますが、西側は埋没しています。東側の地下壕は岩盤を掘り込み、通路では削岩機のロッド痕(径2cm、深さ5cm)を一つ確認できます。2本の地下壕は中でつながりコの字型になる予定だったと考えられますが未完成です。居住壕と考えられます。
便所の南には御座防空監視哨があり、哨舎の基礎と聴音壕が残っていますが、聴音壕の底から通路壕が西側斜面まで貫通しています。防空監視哨にはこのような通路壕は不要で、聴音壕も本土戦陣地として使われていたことがわかります。この陣地群の居住壕が不完全なので、防空監視哨が居住用に使われていた可能性があります。
地下壕から当時のものと考えられる通路を東に行くと、野砲の砲台と考えられる地下壕(深さ7m、高さ2.1m)があります。
防空監視哨の南西尾根上には機関銃座か監視所と考えられる地下壕があります。ごく浅い地下壕ですが、背後には塹壕と考えられる遺構も残っています。
また、金毘羅山への登り口付近にもL字型をした掘り込み遺構があります。
おそらくこの先に射撃室があり、金毘羅山への道路建設で破壊されたため、通路壕だけ残ったと考えられます。
このように、金毘羅山には多くの本土戦陣地跡が残っており、御座や越賀につくられた本土戦陣地の司令部が作られていたと考えられます。
地下壕などの保存状態もよく、貴重な戦争遺跡群です。
岩井崎陣地は砲室と考えられる地下壕とU字型の掘り込みが残っています。
地下壕は入り口の幅4m、深さは約10mで、中には坑木が倒れて残っています。
地下壕の入り口は崩落して狭くなっていますが、内部は完存しています。
U字型の掘り込みは地下壕の東側にあり、崩落が進んでいますが、外形はわかります。おそらく、この掘り込みの奥から地下壕まで通路壕をつなげようと計画されていたと考えられますが、工事は未完で終わっています。
道路に面して残っているので見学しやすいですが、道路がやや狭いため、自動車の時は注意が必要です。
地下壕の入り口を入ってすぐに両側が袖状になり、幅が狭くなっています。25年ほど前には、袖状になった前に丸太が立った状態で残っていたという証言があります。
御座峠陣地は御座と越賀の間の峠にあり、建設途中の坑道式掩体が1基残っています。
大規模に掘削された壁面から坑道が掘られていて、坑道の深さは約20mあります。坑道はその先の砲室までつなぐ予定でしたが未完で終わっています。
海岸を臨む崖には方形の掘り込みがあり、砲室と考えられます。砲室も未完でコンクリートが使われた様子はありません。
坑道の入り口までは岩盤を掘削した通路壕も残っています。道路からも近く、見学しやすい戦争遺跡です。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内のどこかから残部が出てきましたら、お知らせします。