新確認の戦争遺跡②(中部、伊賀)

『三重の戦争遺跡』(2006年)発刊後にも、たくさんの戦争遺跡が新しく確認されています。このページは『三重の戦争遺跡』に載っていない新確認の戦争遺跡を紹介します。

(最終更新は2024年10月23日です) 


津市

空襲で崩れた門(津市大倉)

 1945年7月24日(火)の爆弾による空襲で津市阿漕駅付近では64名が亡くなっています。津市大倉の民家の門には爆弾によって崩れた跡が鮮明に残っています。この空襲で家が倒れ、さらに4日後の焼夷弾空襲によって消失しましたが、門は残りました。

 爆弾によってどちらの門も片面が崩れ落ち、戦後に修復されています。空襲の爪痕を残すものとして持ち主によって大切に保存されています。

半田の地下工場(津市半田)

コンクリート床に作られた機械台座
コンクリート床に作られた機械台座

 近世からの磨き砂採掘場を転用して津市半田には住友がプロペラを製作する地下工場が作られました。

 内部が危険なため調査が進みませんでしたが、2023年に良好に残されている部分が見つかりました。地下工場の部分にはコンクリート床が貼られ、機械を設置する台座もコンクリートで作られています。機械の置き方などを細かく計画して作られていることがわかります。

 略測をしていますが、コウモリの貴重な生息場所でもあるので、コウモリの生態系を優先して少しずつ略測をしています。

 県内最大の地下工場であることは確実です。

真光寺の被爆梵鐘(津市久居元町)

 真光寺の梵鐘にはくっきりと弾痕が残っています。

 ご住職のお話によると、この梵鐘は戦時中に供出されて四日市市の石原産業に運ばれ、そこで機銃弾を受けたそうです。

 戦後、お寺の檀家さんが荷車を引いて四日市まで梵鐘を取りに行ったそうです。

 なお境内には、B29に体当たりした後、亡骸が落下傘で真光寺に降りてきた陸軍パイロットの中川裕さん(広島出身)の追悼碑も建てられています。


久居農林高校の防空壕(津市久居元町)

 県立久居農林高校(津市久居)の校舎南側の丘陵斜面には戦争中に多くの防空壕が造られました。1本だけ現存しますが、入り口が流土で狭くなり、内部はゴミが散乱している状態でした。

防空壕内部から入り口を見る。(19.12.15.)
防空壕内部から入り口を見る。(19.12.15.)

 同校のガーデニングコースの生徒が防空壕の周辺を庭園にして、土木機械コースの生徒が説明板を作りました。壕の入り口には安全のための着脱できる柵も設置されています。

 この防空壕の入り口にはコンクリート門柱があることもわかり、扉をつけたと考えられる金具も見つかっています。爆風への対策が取られているので、学校の中でも大切なものを保管していたと考えられます。

 2020年秋に整備が完成した防空壕では、近くの小学校の子どもたちを招いて平和学習もおこなわれました。放送部が取り組みの様子をまとめた番組は、全国大会にも出場して準決勝まで進んだそうです。

防空壕周辺の整備(21.11.7.)
防空壕周辺の整備(21.11.7.)
整備前の防空壕入り口(19.12.22.)
整備前の防空壕入り口(19.12.22.)

 2019年度に同校の放送部が中心となってプロジェクトを作り、防空壕の整備を開始しました。

 中のゴミを回収し、流土や根を撤去して入り口を広くしました。

整備された防空壕(20.11.7.)
整備された防空壕(20.11.7.)
高校生が作成した説明板(21.11.7.)
高校生が作成した説明板(21.11.7.)

伊賀市

名古屋陸軍兵器補給廠の地下壕(伊賀市新堂)

 伊賀市新堂で、地下壕の天井部が崩落して山道が陥没しています。内部には地下壕の一部が残っていますが、地下壕の入り口付近は戦後米軍が爆破しています。

 新堂地区では、この地下壕の他にも多くの地下壕が作られていました。近くの民家では九四式山砲の薬莢が保管されています。 

九四式山砲の薬莢
九四式山砲の薬莢
天井部が崩落開口した地下壕
天井部が崩落開口した地下壕

 これらの地下壕は名古屋陸軍兵器補給廠・伊賀分廠の中の新堂集積所に関係するものです。

 判明した地下壕はすべて米軍によって爆破されていますが、今後さらに面的な調査が必要で、地下壕が残存している可能性もあります。

 


旧・青山トンネル工事殉難者の供養塔(伊賀市伊勢路)

 伊賀市伊勢路の国道165号線沿いにある青山大師の横に供養塔があります。

 これは1928年~30年に行われた参宮急行電鉄(現在は近畿日本鉄道)の旧・青山トンネル工事で犠牲になった16人のために建てられた供養塔です。

 1930年に施工業者の大林組が建てています。

刻まれている犠牲者のお名前
刻まれている犠牲者のお名前

 2002年に地元の中学生が調査をして、犠牲になった16人のうち8人が朝鮮人労働者であったことがわかりました。その翌年からこの地で殉難者の慰霊祭が開催されています。

 日本の植民地支配を物語るとともに、中学生も見事に歴史の語り継ぎ部になれることを伝える供養塔です。 


柘植尋常高等小学校の奉安殿

都美恵神社の護国社(伊賀市柘植町)

 柘植小学校の奉安殿は、北隣にある都美恵神社に移築されて、護国社として使われています。

 木造ですが、学校に設置された時期や、神社に移築された時期は今のところ不明です。

 内部は白木の内陣になっていて、当時のままよく残っています。

 奉安殿が移築されている境内の左側は、平和の礎など地域の戦争犠牲者を追悼する場になっています。