三重県には二つの海軍工廠がありました。鈴鹿海軍工廠と津海軍工廠です。どちらも海軍の航空機部品を製造する直轄工場でした。津海軍工廠の戦争遺跡はほとんど残っていませんが、鈴鹿海軍工廠の戦争遺跡は豊富に残っています。また海軍燃料廠は、四日市に第二海軍燃料廠がありました。跡地は四日市公害で有名な石油化学コンビナートになりましたが、戦争遺跡は少し残っています。
(少しずつ更新します。最終更新は2023年11月8日です)
第二海軍燃料廠は1941年に操業し、製油能力が2万5千バーレル/日という日本最大(当時)の製油所でした。
1943年頃から備蓄原油が減少したため事実上操業が停止、ロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」の燃料の研究と製造などをしていました。その後、1945年6月26日、7月9日などの空襲により壊滅します。
疎開工場は西方の山中と、いなべ市員弁町平古に造られました。四日市市日永町や西日野町には地下壕など戦争遺跡が現存します。
第二海軍燃料廠の工場跡とその北側に造られた巨大なコンクリート壁が三菱ケミカルの工場敷地内に残っています。
三重県最大規模の戦争遺跡であるコンクリート壁には、機銃弾痕と思われるものも残っていることから「嘆きの壁」とも呼ばれています。
工場跡の重厚な内部も良く残っており、第二海軍燃料廠の規模や面影を知ることのできる大変貴重な戦争遺跡です。
工場の敷地内なので立ち入りは禁止されていて、見学には許可が必要です。工場の外から見ることも困難ですが、航空写真などでその規模はわかります。
第二海軍燃料廠の変電所も残っていて、厚いコンクリートで造られた建物の屋上には機銃砲台が1基あります。機銃砲台があるのは建物屋上の東南隅で、銃眼は東面と西面に2こずつ、北面と南面に1こずつ作られています。現在、銃眼は内部から金属板で封鎖されています。
また建物の西部にも変電施設が広がり、当時のコンクリート壁が残っています。建物の北部にもコンクリート壁が残っています。
どれも大変貴重な戦争遺跡ですが、工場の敷地内なので立ち入りは禁止されていて、見学には許可が必要です。
第二海軍燃料廠は石油精製をするために1941(昭和16)年に操業しましたが、アメリカ軍の空襲により壊滅します。
空襲を避けるために、工場の西の丘陵に造られた「山の工場」は1944年に一部操業してロケット戦闘機「秋水(しゅうすい)」の燃料を製造しました。地下壕を掘るために多数の朝鮮人労働者が動員されています。
また西日野町には、ポンプ施設とされる建物のコンクリート基礎、泊村には海軍官舎、笹川にも移築された海軍官舎が残っています。泊村の海軍官舎近くには1945年7月24日に模擬原爆パンプキンが投下された事実も明らかになっています。
これまでに貯蔵用地下壕が5本確認されています。どれもコンクリートで頑丈に作られています。また戦後に、安全のために入り口が封鎖されています。
四日市市西日野町の南部丘陵公園に接する農園にコンクリートの基礎が残っています。これは半地下式倉庫の基礎です。
鈴鹿市稲生町に残っている鈴鹿海軍航空隊の半地下式倉庫の基礎とよく似ていて、平行する2本の基礎からドーム状に鉄などを出して屋根にするものです。
ここは、南側の基礎が消滅していて、北側のみが残っています。基礎の中央が少し離れているので、2棟あった可能性もあります。
コンクリート基礎から鉄骨が何本も出ていることもわかります。
鈴鹿海軍工廠は1943(昭和18)年4月1日に開廠し、主に二式13ミリ旋回機銃とその弾を作りました。銃を作った部署が機銃部、弾を作った部署が火工部でした。
敷地面積281.3万㎡、建物面積38万㎡という広大な敷地をもち、戦後は跡地に本田技研鈴鹿工場、旭化成鈴鹿製造所、イオンモール鈴鹿、鈴鹿サーキットなどがつくられ、戦後の発展の礎になりました。
また、鈴鹿海軍工廠の建設主任が中心となって、周辺の2町10か村を合併して鈴鹿市ができました。鈴鹿市は、日本で初めて軍によって誕生した市で、まさに軍都でした。
鈴鹿海軍工廠の戦争遺跡は巨大なものも含めてたくさん残っています。特に平野町には工場群が面的に残されていて注目されます。
鈴鹿海軍工廠の中心部は大企業が誘致されたために戦争遺跡はほとんど残っていませんが、鈴鹿市平野町の一角だけは本田技研鈴鹿工場が買収をしなかったので残りました。
この一画には戦後の開拓団である「石丸開拓団」が工場の施設を利用してすでに生活していたので、本田技研は買収を避けたそうです。本田技研は水田や居住地を潰さないようにしたと言われています。
そのため、この一画には弾を製造していた火工部のコンクリート製の工場跡が5棟、小規模の倉庫が3棟残っていて、工場群として面的に残っているのは大変貴重です。
どの建物も個人の所有ですので、見学には許可が必要です。私有地への立ち入りにはご注意下さい。
上の写真は工場跡です。2階は戦後にアパートとして転用された時のものですが、コンクリートの建物の大半が残っています。当時は下のような建物でした。
この建物の他にも、火工部の工場を基礎にして建てられている建物が4棟あります。家屋や倉庫の中にコンクリート製の工場が残っています。
また、大きな工場の周囲には小規模の倉庫も作られていて、そのうちの3棟が現存しています。
戦争当時の工場群を見られるのは、三重県ではここだけで大変貴重です。ぜひ面的な保存を望みたいです。
鈴鹿市を代表する戦争遺跡の一つです。鈴鹿市住吉町の奈良池西方には、鈴鹿海軍工廠で生産された機銃を試射する「山の手発射場」と言われる施設がありました。試射の的として造られたのが着弾場です。
コンクリート製で内径12m、高さは7mです。
現在はリサイクル工場の所有になり、大切に保存されています。工場敷地内に立ち入る時は許可が必要ですが、隣接するモトクロス練習場から全容を見ることができます。
当時は内部に土を盛ってあり、土に弾がめり込むようになっていました。その土は2005年頃まで残っていて(左写真)、土の中から弾を採集することもできましたが、現在は撤去されています。
西側側面は近くで見ることもできます。戦後に鉄が高く売れたので、鉄骨を取った跡がたくさん残っています。コンクリートの質が下部と上部で違うこともよくわかり、二段構造で造られたこともわかります。
山の手発射場に関係する火薬庫が、奈良池の北岸に2棟残っていて、どちらも頑丈なコンクリート製です。池の畔に造られたのは火災の時に水を使えるように考えたためでしょう。
東側の火薬庫は住吉神社のある丘陵に掘り込まれるように造られています。周囲をフェンスで遮蔽されているので近づくことはできません。内部構造も不明です。
建物の内部には両側に溝が造られ、コンクリートで仕切られています。何かを貯蔵するためと考えられますが、工廠の頃のものか、戦後のものかは不明です。
西側の火薬庫は建物の構造をよく見ることができます。東西15m、南北22mの建物で、天井には事故の時の衝撃を逃がすための通風孔がついています。
建物の上部には土をかぶせていた形跡もありますが、空から見えにくくする擬装なのか、東側の火薬庫のように半地下式にするためかは不明です。
火薬庫として造られましたが、生活物資を保管していたという証言もあり、物資倉庫として使われていた時期もあるようです。奈良池周辺は大規模な戦争遺跡が集中するので貴重です。
2010年の平田送水場の改修に伴う平田遺跡の調査の時に出土しました。
コンクリート製の水槽で、内部はアーチ構造になっていて、亀山市関町に残っている鈴鹿海軍工廠・関防空工場のコンクリート水槽に似ています。
発掘調査後に埋め戻されていますので、現在は見ることができませんが、地中に残っています。
なお、鈴鹿市考古博物館が2013年に発刊された『平田遺跡発掘調査報告書(第19次、第22次)』の144ページ~146ページに水槽についての記述があり、図面も掲載されています。近代の遺構についても詳細に調査報告をされているのが嬉しいです。
鈴鹿海軍工廠の正門についていた銘板が大池公園に移設展示されています。
海軍工廠の正門は、現在のイオンモール鈴鹿近くの共進交差点にありました。敗戦直後にアメリカ軍が銘板を破壊しようとした時、海軍工廠機銃部の方が交渉して銘板を引き取り保管されました。
運ぶ時にコンクリートが崩れるので苦労されたそうです。
鈴鹿海軍工廠(鈴鹿市)が造った疎開工場で、1945年4月から13ミリ機銃(爆撃機後部に着ける旋回機銃)の生産が始まり、敗戦直前に弾を造る機械も運びこまれました。地下壕建設には多くの朝鮮人労働者が動員されました。
地下壕は14本すべてが残っていますが崩落が進んでいます。近くには汽缶場の煙突、水をくみ上げるためのポンプ、コンクリート製貯水槽、風呂の基礎、軍事道路跡などが残っています。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。