空襲

 空から爆弾や焼夷弾が落とされる。飛行機から銃で撃たれる。

 あっという間に命や生活が奪われる。ほんの5分前までは思いもしなかったのに…

 空襲の破壊力や酷さを学べる戦争遺跡です。

(最終更新は2024年10月30日です)


伊勢大橋の弾痕(桑名市長島町十日外面)

       頂部に残るロケット弾の弾痕
       頂部に残るロケット弾の弾痕

 

 長良川にかかる国道1号線の伊勢大橋。

一番長島寄りのスパンの下流側に機銃による弾痕が残っています。

鉄板を貫通し、ねじまげる機銃弾の威力がわかります。

天井部はロケット弾によって破壊されています。

貴重な空襲遺跡ですが、2015年から橋の架け替え工事が始まり、消滅の危機にあります。弾痕部分だけでも移築保存できないか、検討を強く要望します。

播磨神明社の弾痕と爆弾穴(桑名市播磨)

 

 

投下された爆弾が神社の境内に落ちました。

だいぶ埋もれてわかりにくくなっていますが、今も爆弾の穴(クレータ-)が残っています。

神明社の建物にいくつか爆弾による弾痕があります。

 

桑名空襲の慰霊碑(桑名市内堀)

 桑名市内堀の貝塚公園に「桑名空襲慰霊之碑」があります。

 この公園は、1937年から初代桑名市長になった貝塚栄之助さんの屋敷の跡地です。1945年7月24日に爆弾による空襲で屋敷が壊滅し、戦後桑名市が買い取って1965年に公園にしました。

 この碑は1998年に建てられ、裏面には7月24日の空襲に加えて、7月17日の焼夷弾による空襲についても刻まれています。

 戦争の悲惨さや空襲の惨禍を忘れないように、公園の入り口には「貝塚不忘園」と刻まれた門も建てられています。

 

下平説教所の被爆梵鐘(いなべ市北勢町下平)

 

 

 戦争中に武器をつくるための金属(鉄や銅)が足りなくなり、金属を供出する命令が国から出されました。お寺の大切な鐘もほとんどが供出させられました。武器を作るために鐘を溶かしたのは四日市市塩浜の石原産業です。ここに愛知・岐阜・三重の鐘が集められました。 

 下平説教所の鐘も供出されましたが、幸い溶かされるまでに戦争が終わり、鐘をお寺に取り戻すことができました。 

 しかし、塩浜駅近くに放置されていた鐘はB29による空襲に遭い、たくさんの爆弾痕で痛々しい姿になっていました。鐘は今も使われ、戦争の愚かさと平和の大切さを伝えています。

四日市空襲「追憶の碑」(四日市市山之一色町)

 四日市山之一色町の山三瓦工業の敷地に「追憶の碑」が建てられています。戦争中、ここはこんもりした土手で、そこにコの字型の個人用防空壕が掘られていました。

 1945年6月18日の四日市空襲の時、防空壕を焼夷爆弾Ⅿ47が直撃し、中にいた10人のうち3人が亡くなりました。他にも、近くに少なくとも3発のM47が落とされ、1軒が全焼しています。

亀山列車銃撃説明板(亀山市天神)

中村公民館と説明板
中村公民館と説明板

 亀山市の中村公民館前に亀山列車銃撃の説明板があります。1945年8月2日のお昼に亀山駅を出た列車がアメリカ陸軍のP51に銃撃されました。犠牲者は40人以上と言われていますが、これまでに9名の方のお名前などがわかっているのみです。

 説明板は市民団体によって2019年8月2日に設置され、翌年からは犠牲者記銘板が更新されています。2017年からは8月2日に毎年追悼法要も中村公民館でおこなわれています。

勤労動員学徒爆死者の供養塔(津市上浜町)

 津市上浜町にある「ひょうたん池」の北畔に、名古屋から三菱重工業航空機製作津工場(津市江戸橋)に動員され、津の空襲で亡くなった名古屋市立機械工業学校の15人を追悼する供養塔があります。

 1945年6月26日昼の空襲で生徒11人と引率教師1人が即死。重傷を負った生徒は近くの県立医学専門学校付属病院(現・三重県鳥居会館)に入院して、友人たちが看護していましたが、7月24日の空襲で病院も被爆し、生徒3人が亡くなりました。勤労動員中では県内最大の犠牲者数です。 

 碑は1951年に建てられました。

塔世橋の被爆欄干(津市万町)

 津市は1945年7月24日に爆弾、4日後の7月28日には焼夷弾の空襲を受け、2500人以上の方が亡くなりました。国道23号線の塔世橋(安濃川)には、欄干に多くの弾痕が残されました。

 1993年に橋を架け替えた時、市民の保存要望に応えて津市や建設省(現:国土交通省)は弾痕のある部分を移築保存しました。説明板もつくられ、津の空襲を語り継ぐ貴重な場所になっています。

 

寒松院の被爆墓石(津市寿町)

 江戸時代の津藩の藩主、藤堂家の墓所である寒松院。墓石には津空襲の傷痕がたくさん残されています。

 爆弾片が直撃して欠けたもの、爆風で傾いたもの、炎で黒く焼け焦げたもの。これが石でなく人だったら…と想像してみましょう。 

 津市は1945年7月24日に爆弾、4日後の7月28日には焼夷弾の大空襲を受け、2500人以上の方が亡くなっています。

憲兵隊分遣隊の被爆塀(津市大倉)

 1945年7月24日(火)。津市は爆弾による大空襲を受け、JR阿漕駅(当時は国鉄)周辺でも64名が亡くなっています。阿漕駅近くにあった憲兵隊の塀には、その時の弾痕と考えられる穴が残っています。 

 開発工事で破壊されそうになりましたが、市民の要望で津市によって阿漕駅前に移築保存されました。戦争遺跡を保存継承する津市の取り組みは県内でも先進的です。

空襲で崩れた門(津市大倉)

 1945年7月24日(火)の爆弾による空襲で津市阿漕駅付近では64名が亡くなっています。津市大倉の民家の門には爆弾によって崩れた跡が鮮明に残っています。この空襲で家が倒れ、さらに4日後の焼夷弾空襲によって消失しましたが、門は残りました。

 爆弾によってどちらの門も片面が崩れ落ち、戦後に修復されています。空襲の爪痕を残すものとして持ち主によって大切に保存されています。

神戸国民学校の殉職教職員慰霊碑

(津市神戸    野外活動センター内)

 津市野外活動センターは、戦争当時は神戸国民学校(今の小学校)でした。

 1945年4月7日。お昼前の11時過ぎに、神戸地区に約10発の爆弾がB29から投下され、26人の方が亡くなりました。

 そのうちの1発は、たまたま国民学校の防空壕を直撃し、中にいた教員7名が即死しました。朝から空襲警報が出たので子どもたちに付き添って帰宅させた後、教頭先生が女性教師6人を連れて避難した矢先の惨事でした。

「トンビが何羽も急降下して、肉をついばんでいた」「イモの苗床に首が落ちていた」「その日の新聞は、先

生の肉を包んだので配達されなかった」などの話が伝わっています。

 防空壕跡がプール工事で壊されることになり、PTAが1966年に建立しました。


被爆したレンガ塀(津市神戸)

 1945年4月7日。お昼前の11時過ぎに、神戸地区に約10発の爆弾がB29から投下され、26人の方が亡くなりました。

 旧道沿いにあるレンガ塀には、近くの大善寺でさく裂した爆弾の弾痕が残り、飛んで来る爆弾の破片のすさまじさを感じることができます。

 レンガ塀は修復されながら大切に残されています。

神戸乃神社に残る弾痕(津市神戸)

 1945年4月7日。お昼前の11時過ぎに、神戸地区に約10発の爆弾がB29から投下され、26人の方が亡くなりました。

 神戸乃神社の近くでも爆弾が爆発し、拝殿の分厚い額板には爆弾の破片が貫通した跡が残っています。

 また、拝殿の垂木などにも弾痕が残っています。

真光寺の被爆梵鐘(津市久居元町)

 真光寺の梵鐘にはくっきりと弾痕が残っています。

 ご住職のお話によると、この梵鐘は戦時中に供出されて四日市市の石原産業に運ばれ、そこで機銃弾を受けたそうです。

 戦後、お寺の檀家さんが荷車を引いて四日市まで梵鐘を取りに行ったそうです。

 なお境内には、B29に体当たりした後、亡骸が落下傘で真光寺に降りてきた陸軍パイロットの中川裕さん(広島出身)の追悼碑も建てられています。


三縁寺の山門に残る爆弾痕(度会郡玉城町田丸)

敗戦前日の1945年8月14日(火)、アメリカ軍の小型機1機が田丸に来襲、爆弾4発を落とし機銃を撃ちました。この空襲で女性3人が亡くなったことが確認されています。

 

三縁寺近くにも爆弾が落ち、山門には破片による弾痕がいくつも残されています。破片がめりこんでいるものもあります。当時、三縁寺には陸軍の通信隊が寝泊まりしていて、茶碗や毛布なども残されています。

三野瀬駅での機銃掃射の弾痕(紀北町)

 1945年7月25日に、三野瀬駅に停車していた上下線の列車が機銃掃射を受け、13人が亡くなりました。この日はアメリカやイギリスの空母から飛び立った艦上機が三重県各地で機銃掃射やロケット弾攻撃をしています。

銃弾が内部に残る部材
銃弾が内部に残る部材

 銃弾は三野瀬駅の駅舎にも当たりました。駅舎は建て直されましたが、部材の一部が紀伊長島郷土資料室で保存展示されています。部材は2点で、その一つには銃弾が内部にめり込んでいて、間近で見ることができます。