戦争当時、三重県には軍隊の飛行場が10ヶ所(海軍6、陸軍4)ありました。
そのうち4つは、敗戦間際に作られた本土戦のための特攻用飛行場です。
このうち9ヶ所で戦争遺跡が確認されています。(最終更新は2024年7月21日です)
本土戦に備えて県内に4ヶ所新設された特攻用飛行場の一つです。滑走路やコンクリート掩体などは消滅しましたが、丘陵に半地下式のコンクリ―ト製指揮所2基と土製掩体が2基残っています。
西側の指揮所(画像)は永井地区の方々によって整備され、説明板も設置されています。地域で大切に保存されている戦争遺跡です。
土製掩体は隣接する四日市市西村町に残り、特に1基は完全な形で残っているので貴重です。
この飛行場には、陸軍の振武寮(福岡県)に収容されていた特攻隊員も配備されていたことがわかっています。
鈴鹿市は1942年に軍都として誕生しましたが、この地域に一番早く、1938年に造られたのが鈴鹿海軍航空隊です。海軍の航空機搭乗員(通信や気象などの偵察要員)を養成しましたが、1945年2月で教育施設ではなくなり、「鈴鹿海軍第一航空基地」として実戦部隊になります。
すばらしい格納庫が3棟残っていましたが、市民の保存運動も実らず、破壊されました。
正門と番兵塔が保存されましたが、どちらも原位置から移動し、配置も変わっているので注意が必要です。鈴鹿市が設置した説明板の記述にも違和感をもつ部分が
鈴鹿海軍航空隊の格納庫は5棟ありましたが、第1と第2格納庫は戦後間もなく撤去されました。
そして第2格納庫は近畿日本鉄道(近鉄)の塩浜駅に移設され、車両の検査場として現在も使われています。他の格納庫が消滅した今、当時の様子がわかり貴重です。
普段は近寄ることはできませんが、年に1回塩浜駅が開催するイベントの時には見学が可能です。
鈴鹿海軍航空隊は1945年3月1日に本土戦に向けて第一鈴鹿海軍航空基地になります。本土戦に備えて、滑走路の周りに飛行機を隠す掩体を作り、滑走路と掩体を誘導路で結びました。
周囲には防御用の砲台が作られ、高角砲が3ヶ所、25mm機銃が6ヶ所に据えられていました。
ほとんどが戦後の開発で消滅しましたが、第二機銃砲台のコンクリート製弾薬庫1棟が残っています。
鈴鹿海軍航空隊の北側に、予科練習生の飛行練習や近くの三菱で製造・整備された海軍機輸送のために滑走路が作られたのは1942年。それが本土戦準備のため1945年3月1日に第二鈴鹿海軍航空基地になります。
滑走路跡は工場や商業地になっていますが、レンガ倉庫2棟が南玉垣町に残っています。
レンガ倉庫②は南側の壁面がよくわかります。内部は改装されているそうです。現在も居住されているので、見学には所有者の許可が必要です。レンガ倉庫②の南側には巨大なコンクリート貯水槽が残っていたそうですが、現在は開発で消滅しています
レンガ倉庫①は、南側の壁面の他はほぼ完存しています。現在は民家とつながっているため、内部の見学は所有者の許可が必要です。
本土戦に備え、陸軍は特攻用の鈴鹿飛行場を今の鈴鹿インター付近に造りました。「椿秘匿(つばきひとく)飛行場」「追分飛行場」などとも呼ばれています。
十字型の滑走路の周りに飛行機を運ぶ誘導路が造られ、誘導路沿いに飛行機を隠すための土製の掩体(えんたい)が約70個造られていました。
土製掩体は鈴鹿市長沢町、山本新田、四日市市水沢野田町の森の中などに、今も11個が残っています。画像は長瀬神社駐車場横(鈴鹿市長沢町)に残る土製掩体です。
前述の陸軍鈴鹿飛行場には、飛行機を隠すためのコンクリート製の掩体も1個残っています。
コンクリート製の掩体は全国に約100個残っていますが三重県にはこれしかなく、国の登録文化財になっています。他の掩体と比べて庇(ひさし)ついているのが特徴です。掩体の上には工事中についた足跡も残っています。
この掩体は未完成のまま敗戦を迎えますが、鈴鹿飛行場の滑走路から少し離れた所にあり、補修や整備を担当するエリアがこの周辺に造られていたと考えられます。
すぐ近くには朝鮮人労働者の宿舎もありました。
陸軍のパイロットを養成するために1941年に造られた北伊勢飛行場は、1944年になると学校ではなく実戦部隊になり特攻訓練にも使われました。
格納庫のコンクリート基礎が残るほか、司令部跡地に建てられた川崎小学校内には当時の門が残っています。また亀山市川崎町の一色地区の公民館は兵舎を移築したものです。画像は亀山市能褒野町に残っている格納庫のコンクリート基礎です。
鈴鹿市広瀬町では、飛行場の境界石柱、墜落した飛行機の機体片などが保存されています。
また、川崎小学校の西にはコンクリート倉庫が1棟残っています。飛行場敷地の西端部に当たり、当時の図面には油庫と記載されていますが、地域では食糧倉庫と伝えられ、隣接して炊事場があったと言われています。
コンクリート倉庫の南にも同様のコンクリート倉庫がありましたが、造成工事で消滅しました。また、北にもコンクリート倉庫があったそうです。
コンクリート倉庫近くの畑には、コンクリート基礎が良く残っていて、当時の図面で発動機整備場だと考えられます。その北にも別の建物のコンクリート基礎が一部残っていて、修理工場の跡だと考えられます。
排水溝の長さは500m近くあり、上部につけられたコンクリートのふたも重厚です。排水溝と格納庫の間もコンクリート舗装され、練習機の待機場と考えられます。
北伊勢飛行場には格納庫が9棟並んで作られましたが、格納庫群の北側に作られた排水溝がほぼ完全に残っています。
少年を航空兵に育てるための予科飛行練習生は「よかれん(予科練)」と呼べれ、戦争当時の子どもたちの憧れでした。予科練を教育するために1942年に造られたのが三重海軍航空隊です。
正門跡には当時のレンガ塀が大切に保存されていますし、正門は津市香良洲歴史民俗資料館に移築保存されています。歴史民俗資料館には予科練、津市の空襲、戦争中の市民の暮らしなどについての資料が展示されています。
ここには戦争の犠牲になった多くの若者の慰霊碑も並び、特攻などで国に死ねと命じられた若者の悲痛な思いがわかります。
松阪市の岡山町集会所に「海軍用地」と刻まれた石柱が6本集められています。これは三重海軍航空隊が作っていた演習地などの施設の境界を示すものです。
付近には兵舎や簡易倉庫などが作られていました。
また周辺では「池に二枚羽の水上機が浮かべてあった」「飛行機の格納庫や滑走路、地下壕があった」「戦後、占領軍が来て飛行機などを焼き、地元の人は後で部品を拾いに行った」という証言もあります。
明野陸軍飛行学校は1924年にでき、陸軍の戦闘機搭乗員にとっては「ふるさと」のような存在です。
敷地は陸上自衛隊航空学校として使われているので、自由に見学することはできませんが、当時の将校集会所が残っています。これは1922年の航空学校明野分校の時に造られたもので、今は戦争資料館になっています。
近くには射撃訓練の時に使う監的所が2基残っていましたが、1基は造成のために破壊されました。コンクリート製の通信施設も残っていましたが、2017年に記録保存のための調査が行われ、その後破壊されました。隣接する工場に格納庫が、近隣の林に本土戦のために造られた土製掩体も残っています。
本土戦のための特攻用飛行場として造られた水上飛行機の飛行場で、水産試験場を転用しました。
飛行場の遺構は残っていませんが、近くに2本のコンクリート製の地下壕があります。
地下壕Aは、戦後アメリカ軍が爆破していったそうで、内部の天井が破壊されています。(右写真)
地下壕Bは、入り口がコンクリートで四角形にされていて、入り口には扉をつけた跡があります。
地下壕周辺はマムシが多いそうなので、冬以外に見学する時は細心の注意をして下さい。
本土戦に備えて戦争末期に造られた海軍伊賀上野航空基地は、滑走路が現在の伊賀市立緑ヶ丘中学校、東小学校、工場用地にまたがる所にありました。
その東方に誘導路と土製掩体が造られました。敗戦直後の図面によると、土製掩体は約30基確認できます。
土製掩体は池のような状態で4ヶ所残っていますが、詳細調査の必要があります。
また、この航空基地に関係する地下司令部が、上野城本丸東側の地下に造られましたが、入り口部分は埋められていて、詳細は不明です。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。