(最終更新は2024年6月1日です)
陸軍のパイロットを養成するために1941年に造られた北伊勢飛行場は、1944年になると学校ではなく実戦部隊になり特攻訓練にも使われました。
格納庫のコンクリート基礎が残るほか、司令部跡地に建てられた川崎小学校内には門が残っています。また亀山市川崎町の一色地区の公民館は兵舎を移築したものです。画像は亀山市能褒野町に残っている格納庫のコンクリート基礎です。
鈴鹿市広瀬町では、飛行場の境界石柱、墜落した飛行機の機体片などが保存されています。
また、川崎小学校の西にはコンクリート倉庫が1棟残っています。飛行場敷地の西端部に当たり、当時の図面には油庫と記載されていますが、地域では食糧倉庫と伝えられ、隣接して炊事場があったと言われています。
コンクリート倉庫の南にも同様のコンクリート倉庫がありましたが、造成工事で消滅しました。また、北にもコンクリート倉庫があったそうです。
コンクリート倉庫近くの畑には、コンクリート基礎が良く残っていて、当時の図面で発動機整備場だと考えられます。その北にも別の建物のコンクリート基礎が一部残っていて、修理工場の跡だと考えられます。
排水溝の長さは500m近くあり、上部につけられたコンクリートのふたも重厚です。排水溝と格納庫の間もコンクリート舗装され、練習機の待機場と考えられます。
北伊勢飛行場には格納庫が9棟並んで作られましたが、格納庫群の北側に作られた排水溝がほぼ完全に残っています。
なお、亀山市立川崎小学校には陸軍の噴水池も残っていましたが、校舎新築に伴い2019年に破壊されました。
現在は、破壊した後によく似たものを作ってあり、まったく意味不明です。19年当時の工事責任者(学校、行政)の見識の低さを証明するだけのもので、歴史的価値はまったくありませんのでご注意下さい。
隣接して1941年に建てられた「第二期下士官候補者卒業記念」碑があります。これは当時のもので、長く旧校舎の裏に放置されていたものです。
不動院直下の斜面に6本の地下壕が現存しています。
この地下壕は1943年の11月頃から陸軍が地域の方を動員して掘り、完成後は旋盤や工作機械を入れて軽機関銃を作っていました。軽機関銃を作っていたのは、国民学校を出たばかりの子どもや、さまざまな理由で兵隊になれない40~50才ぐらいの方たちで、10人余りの陸軍の兵隊や技官に指揮されていたそうです。
この地下壕の800m東方には、大規模な地下工場(森地下工場)がありましたので、その分工場の可能性もあります。
鈴鹿海軍工廠(鈴鹿市)が造った疎開工場で、1945年4月から13ミリ機銃(爆撃機後部に着ける旋回機銃)の生産が始まり、敗戦直前に弾を造る機械も運びこまれました。地下壕建設には多くの朝鮮人労働者が動員されました。
地下壕は14本すべてが残っていますが崩落が進んでいます。水没している壕もあります。
近くには汽缶場の煙突、水をくみ上げるためのポンプ、コンクリート製貯水槽、風呂の基礎、軍事道路跡などが残っています。
2024年3月に亀山市が説明板を設置しました。
地下壕内部は危険ですので、立入らないで下さい。
亀山市三寺町の山裾に全長約22mの地下壕が現存します。壕の東側に地下壕の痕跡が2ヶ所ありますが、地域の方によると深い壕は1本だけで、残りは掘りかけだったそうです。
三寺町のお寺に海軍が駐屯し、トラックで魚雷を何度も運び、スクリューなどの検査をしていたそうです。
この地下壕も魚雷を隠すために掘られましたが、未完成のまま敗戦を迎えました。
弘法寺の山中にY字型の地下壕が残っています。東西に約30mの地下壕が貫通していましたが、現在は東側入り口は崩落しています。西側入り口から入ってすぐ北側に約30mの地下壕が作られています。
この地下壕周辺で海軍の部隊がトロッコを使って地下壕を掘っていて、近くにL字型をした地下壕があったこともわかっています。また、別の場所でも地下壕の痕跡と考えられるものもあります。トロッコの軌道が道路として使われている所もあります。
海軍が何を保管するために地下壕を掘っていたのかは不明です。
海軍の部隊は弘法寺の民家に分宿していました。戦後、トロッコのレールは弘法寺地区に運んで再利用しましたが、1本だけ現存しているのは貴重です。
JR下庄駅から南に伸びる谷に、南北に貫通する地下壕が残っています。地下壕は全長53mで、南入り口は崩落していますが、内部はほぼ完存していて貴重です。
この地下壕は弘法寺の地下壕からも近いので、海軍が掘った可能性が高いですが詳細不明です。
この地下壕の近くに朝鮮人労働者の飯場があり、飯場の子どもたちが地域の小学校の教室に入りきれず、廊下で学習していたという証言もあります。
朝鮮人労働者と地下壕の関連性が考えられます。
民家の裏の山裾に深さ3mほどの防空壕が完存しています。奥には椅子状のものもあります。防空壕の隣には、掘りかけて止めたくぼみも残っています。
この防空壕を所有されている方はうどん屋さんを経営されているので、営業時間内なら防空壕の見学が可能です。
白木町の丘陵は掘りやすく崩れにくい土質なので、近くにもL字型の民間防空壕が残っています。
亀山市の中村公民館前に亀山列車銃撃の説明板があります。1945年8月2日のお昼に亀山駅を出た列車がアメリカ陸軍のP51に銃撃されました。犠牲者は40人以上と言われていますが、これまでに9名の方のお名前などがわかっているのみです。
説明板は市民団体によって2019年8月2日に設置され、翌年からは犠牲者記銘板が更新されています。2017年からは8月2日に毎年追悼法要も中村公民館でおこなわれています。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。