1930年代になると、天皇の神格化と戦意高揚のために、
学校には「ご真影」と呼ばれる昭和天皇・皇后の写真が「下賜」され、
それらや教育勅語を保管するために、奉安殿や奉安庫が準備されました。
奉安殿は学校で最も神聖な場所とされ、登校時や下校時に子どもや教員は、
最敬礼することが義務づけられていました。
敗戦後の1946年には、奉安殿は急速に学校から撤去されますが、
一部が寺社などに移築されて残り、県内では11基が確認されています。
(少しずつ更新しています。最終更新は24年10月23日です)
桑部尋常高等小学校(現・桑名市立桑部小学校)の奉安殿は、近くの須賀神社(同市西金井)に移されて神殿として使われています。
この奉安殿は土蔵造りで、1928(昭和3)年に作られたそうです。
小学校から神社に移築された時期は不明ですが、移築時に屋根や鉄扉などが修築された可能性があります。
奉安殿は、須賀神社の拝殿の後ろにあるため、道路からも見えにくいです。奉安殿の右手に、日清・日露戦争の祈念碑も置かれています。
治田(はった)尋常高等小学校(現:いなべ市立治田小学校)の奉安殿は、同町にある奥村神社の神殿になっています。
地元の方によると、1938年に新しい奉安殿が作られてから、それまで使われていた奉安殿は学校の北側にずっと置かれていましたが、1948年に奥村神社に移し、神殿として使われるようになったそうです。屋根は修復されています。
1938年に作られた奉安殿は現存しません。
梅戸井村尋常高等小学校(現:いなべ市立笠間小学校)の奉安殿は、近くの梅戸北神明社の神殿になっています。
この奉安殿は木造建築で、棟木の上に堅魚木を並べた神社様式です。1930年に「学窓会客員会員」の寄贈によって建てられ、1946年に学校から撤去されて、現在の場所に移されました。
山郷(やまざと)尋常高等小学校(現:いなべ市立山郷小学校)では1928年に奉安庫が作られました。
山郷小学校では大きな金庫の周りに白壁を塗って仕上げたそうで、その金庫がいなべ市阿下喜の郷土資料館「桐林館」(旧:阿下喜小学校)に保存されています。内部には見事な鳳凰の絵なども描かれています。
三重尋常高等小学校の奉安殿は、1908年に八幡社(山之平)を江田神社に合祀した時に、八幡社の宝殿を移築したものです。
1928年に奉安殿が新築され、この建物は「昔の神社の建物をつぶす訳にはいかない」と、個人が55円で買い取り、さらに95円を使って地蔵堂として整備しました。
県(あがた)尋常高等小学校の奉安殿は1931年に落成し、1934年には玉垣も造成されました。
1945年の敗戦時に、地域の篤志家が運び出して学校の南の畑に置かれましたが、1980年頃にその地に地区市民センターが建てられることになり、学校敷地に戻されました。原位置とは違いますが、学校敷地内にある県内では珍しい奉安殿です。
2003年には四日市市が補修し、「旧奉安殿」の説明板も設置しました。
保々尋常高等小学校の奉安殿は、隣接する殖栗神社に移築され、稲荷社として使われています。
奉安殿が作られた時期は不明ですが、敗戦後は殖栗神社に移されて祖霊社になりました。
1974年に祖霊社が新築されたので倉庫になり、その後改修されて1985年から稲荷社になっています。
常磐尋常高等小学校(現:四日市市立常磐小学校)にあった奉安殿で、1935年に建てられました。敗戦後の1946年に小学校から近くの誓元寺に移築され、納骨堂として使われてきました。
老朽化が進みましたが、ご住職の英断で戦争遺跡として保存され、2004年に改修後、2011年に山門や鐘楼とともに登録文化財になりました。
県内に奉安殿は11ヶ所で確認されていますが、登録文化財になっているのはこの奉安殿だけです。
柘植小学校の奉安殿は、北隣にある都美恵神社に移築されて、護国社として使われています。
木造ですが、学校に設置された時期や、神社に移築された時期は今のところ不明です。
内部は白木の内陣になっていて、当時のままよく残っています。
奉安殿が移築されている境内の左側は、平和の礎など地域の戦争犠牲者を追悼する場になっています。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。