戦争遺跡として指定文化財になったものは、三重では2015年までありませんでした。
しかし、ようやく2016年に町指定文化財が誕生しました。
これが突破口になって各地で市町指定文化財、さらに県指定文化財になる戦争遺跡が生まれてほしいです。
陸軍第七通信連隊は、戦闘機や飛行場などで働く航空通信兵を教育・訓練するために1942年に開設され、中部第128部隊と通称されていました。
付近には建物のコンクリート基礎などが多く残っています。防空壕もその一つで、東半分は宅地造成によって破壊されていますが、コンクリート製の部屋や通路階段が良く残っています。
2016年に明和町の指定文化財となりました。戦争遺跡として指定文化財になったのは、三重県で初めてです。
樹齢が長く大変貴重な巨木なので、1996年に三重県の天然記念物に指定されました。
戦争中、すぐ近くに第二鈴鹿海軍航空隊が造られ、軍用機の離着陸の邪魔になるために伐採されることになりましたが、着手後に飛行機が3機墜落したり、担当官が急病になったりしたため、作業が中止になったそうで、地域では「海軍に勝った松」と伝承されています。
戦争遺跡ではありませんが、戦争に関わる民話をもつ巨木です。
津市の寒松院にある、津藩の藩主である藤堂家の墓地には、歴代藩主や夫人の巨大な五輪塔や板石の塔が立ち並び、1975年に津市の指定文化財になりました。
墓石には1945年7月の空襲による多くの弾痕が残り、墓石がずれたままのものもあります。空襲により寒松院の建物はすべて焼失しています。
空襲遺跡として文化財指定されたのではありませんが、空襲の爪あともわかる指定文化財です。
江戸時代末期に異国船に備えて鳥羽藩が築いた砲台の跡地です。
田崎の岬の突端を削平した跡地は、ホテル「ニュー美しま」の庭園になり、説明板が建てられています。その南側には火薬庫跡もあります。
岩屋山古墳は横穴式石室をもつ6世紀代の円墳で、鳥羽市の史跡になっています。
戦争末期に本土戦陣地(打越陣地)の交通壕に利用されたために、石室の奥の壁が破壊されていて、戦争遺跡としても貴重です。破壊された石室の北側には墳丘を削った交通壕も残っています。
この地で亡くなったイギリス兵捕虜の墓地です。1944年6月に紀州鉱山に連行された300人のイギリス兵捕虜のうち、敗戦までに16人が亡くなりました。
その墓地は少し南の場所にありましたが、採石場に近くて墓が汚れやすいので、1987年に現在の場所に移築されました。墓地を掘り起こした時に出土した遺骨を、地元の方が丁寧に埋葬され、今も地域で大切に守られています。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。