『三重の戦争遺跡』(2006年)発刊後にも、たくさんの戦争遺跡が新しく確認されています。このページは『三重の戦争遺跡』に載っていない新確認の戦争遺跡を紹介します。
(最終更新は2024年10月3日です。桑名市を更新しました)
投下された爆弾が神社の境内に落ちました。
だいぶ埋もれてわかりにくくなっていますが、今も爆弾の穴(クレータ-)が残っています。
神明社の建物にいくつか爆弾による弾痕があります。
地域には「神社が爆弾から守ってくれた」という伝承が残っています。
桑部尋常高等小学校(現・桑名市立桑部小学校)の奉安殿は、近くの須賀神社(同市西金井)に移されて神殿として使われています。
この奉安殿は土蔵造りで、1928(昭和3)年に作られたそうです。
小学校から神社に移築された時期は不明ですが、移築時に屋根や鉄扉などが修築された可能性があります。
奉安殿は、須賀神社の拝殿の後ろにあるため、道路からも見えにくいです。奉安殿の右手に、日清・日露戦争の祈念碑も置かれています。
桑名市の実業家である諸戸清六の邸宅が修復され「六華苑」として市が公開していますが、屋敷の西方に防空壕が残っています。2ヶ所の入り口が鉄板で玄順に封鎖されていますので内部を見ることはできませんが、コンクリート製で入り口には階段もつけられています。
内部は長さ5m、高さと幅が2mあるようです。六華苑が修復されるまでは放置されていて、中には水が溜まっていたことがわかっています。富豪の作ったものは、他の民間防空壕に比べてもぜいたくで頑丈です。
戦争中に武器をつくるための金属(鉄や銅)が足りなくなり、金属を供出する命令が国から出されました。お寺の大切な鐘も多くが供出させられました。
下平説教所の鐘も供出されましたが、幸いなことに溶かされるまでに戦争が終わり、お寺に取り戻すことができました。
しかし、三重県四日市市に運ばれた鐘は空襲に遭い、たくさんの弾痕で痛々しい姿になっていました。鐘は今も使われ、戦争の愚かさと平和の大切さを伝えています。
いなべ市北勢町垣内の賀毛(かもう)神社の防空壕は、本殿跡地の後ろにあります。
内部はL字型で、入り口は土が崩れて流れ込んだために狭くなってきていますが内部は完存しています。
当時の本殿のすぐ後ろに掘られていることから、ご神体など本殿のものを入れるために作られたと考えられます。夏は草が生い茂り、ヘビなどもいますので、見学は冬季に限られます。神社の方の許可も必要です。
第二海軍燃料廠の工場跡とその北側に造られた巨大なコンクリート壁が三菱ケミカルの工場敷地内に残っています。
三重県最大規模の戦争遺跡であるコンクリート壁には、機銃弾痕と思われるものも残っていることから「嘆きの壁」とも呼ばれています。
工場跡の重厚な内部も良く残っており、第二海軍燃料廠の規模や面影を知ることのできる貴重な戦争遺跡です。
工場の敷地内なので立ち入りは禁止されていて、見学には許可が必要です。工場の外から見ることも困難ですが、航空写真などでその規模はわかります。
第二海軍燃料廠の変電所の建物が残っていて、厚いコンクリートで造られた建物の屋上には機銃砲台が1基あります。機銃砲台があるのは建物屋上の東南隅で、銃眼は東面と西面に2こずつ、北面と南面に1こずつ作られています。現在、銃眼は内部から金属板で封鎖されています。
また建物の西部にも変電施設が広がり、当時のコンクリート壁が残っています。建物の北部にもコンクリート壁が残っています。
どれも大変貴重な戦争遺跡ですが、工場の敷地内なので立ち入りは禁止されていて、見学には許可が必要です。
第二海軍燃料廠西方の丘陵に造られた疎開工場(「山の工場」)に関わる戦争遺跡は泊山小学校北にある地下壕2本が知られていましたが、さらに地下壕が確認され現存する地下壕は5本になりました。
さらに西日野町内にはポンプ施設と伝わる建物のコンクリート基礎も残っていることがわかりました。
工員官舎も泊村で1棟現存し、笹川町に1棟が移築されていることもわかりました。
また、当時の工場跡と考えられるコンクリート基礎なども確認されています。
さらに、泊村の工員官舎近くに1945年7月24日の朝、模擬原爆「パンプキン」が1発投下され、別の官舎に住んでいた母子2人が亡くなり、ため池が決壊したことも、最近の調査で判明しています。
四日市市西日野町の南部丘陵公園に接する農園にコンクリートの基礎が残っています。これは半地下式倉庫の基礎です。
鈴鹿市稲生町に残っている鈴鹿海軍航空隊の半地下式倉庫の基礎とよく似ていて、平行する2本の基礎からドーム状に鉄などを出して屋根にするものです。
ここは、南側の基礎が消滅していて、北側のみが残っています。基礎の中央が少し離れているので、2棟あった可能性もあります。
コンクリート基礎から鉄骨が何本も出ていることもわかります。
四日市山之一色町の山三瓦工業の敷地に「追憶の碑」が建てられています。戦争中、ここはこんもりした土手で、そこにコの字型の個人用防空壕が掘られていました。
1945年6月18日の四日市空襲の時、防空壕を焼夷爆弾Ⅿ47が直撃し、中にいた10人のうち3人が亡くなりました。他にも、近くに少なくとも3発のM47が落とされ、1軒が全焼しています。
民家の裏の山裾にありますが、2019年の大雨で入り口部分が崩れて狭くなりました。かつて竹藪でしたが、伐採した後に崩れたそうです。
入り口が上から崩落したので防空壕の長さが短くなりました。また、入り口が狭くなったために入りづらくなりましたが、奥の部分は良く残っています。
鈴鹿海軍航空隊は1945年3月1日に本土戦に向けて第一鈴鹿海軍航空基地になります。本土戦に備えて、滑走路の周りに飛行機を隠す掩体を作り、滑走路と掩体を誘導路で結びました。
周囲には防御用の砲台が作られ、高角砲が3ヶ所、25mm機銃が6ヶ所に据えられていました。
ほとんどが戦後の開発で消滅しましたが、第二機銃砲台のコンクリート製弾薬庫1棟が残っています。
現在の鈴鹿市東玉垣町に建てられた三菱重工業鈴鹿工場第一組立工場の南側壁面のコンクリート基礎が、鈴鹿市立千代崎中学校の自転車置き場近くに残っています。
鈴鹿工場の敷地は広大で、千代崎中学校もその一部ですが、現存している戦争遺跡は今の所、このコンクリート基礎だけです。
鈴鹿工場と、その西に作られた三菱重工業鈴鹿整備工場などは引き込み線でつながっていました。
その線路跡が、現在は道路になって残っています。
この近くには鈴鹿海軍航空隊なども密集していて、当時も軍産複合体になっていたことがよくわかります。
サーキット道路沿いの畑地にコンクリートの基礎が2本見えます。これは三菱重工業鈴鹿工場(現・東玉垣町)の疎開工場2棟の跡です。
基礎から推定される規模は、東側の第一工場が東西31ⅿ、南北18ⅿ。西側の第二工場が東西25ⅿ、南北18ⅿです。南に面した丘陵には、コンプレッサー用倉庫や便所を作ったと考えられる平坦地も残っています。また、丘陵東端の福祉施設の駐車場にはコンクリート面が残り、疎開工場の一部と考えられます。
さらに南方の伊奈富神社北方にも平坦地が残り、第三、第四工場が建てられていたことが資料から判明しています。
これらの工場で作られていた部品は、今のところ不明です。
コンクリート基礎には斜めに溝が掘られ、ドーム状の天井が造られていたと想定されます。これに対応するように山裾にもコンクリート基礎が造られています。
2010年の平田送水場の改修に伴う平田遺跡の調査の時に出土しました。
コンクリート製の水槽で、内部はアーチ構造になっていて、亀山市関町に残っている鈴鹿海軍工廠・関防空工場のコンクリート水槽に似ています。
発掘調査後に埋め戻されていますので、現在は見ることができませんが、地中に残っています。
なお、鈴鹿市考古博物館が2013年に発刊された『平田遺跡発掘調査報告書(第19次、第22次)』の144ページ~146ページに水槽についての記述があり、図面も掲載されています。近代の遺構についても詳細に調査報告をされているのが嬉しいです。
1941年に鈴鹿市石薬師町(当時は石薬師村)に作られた陸軍第一気象連隊。その本部は東南隅にありました。
陸軍の本部前には、防火用水を兼ねた円型池が作られますが、そのコンクリート壁の4分の1ほどが残っています。
また、本部の東側に建てられていた気象観測所のコンクリート基礎も残っています。現在は、畑の下になっていて見ることはできませんが、畑を耕すためにトラクターを入れると、コンクリートに当たってトラクターの刃が曲がって仕事にならないそうです。畑の所有者によると、コンクリート基礎を割ろうとしたものの難しいので、上に土を盛って畑にしたそうです。
山辺町には第一気象連隊の射撃場のコンクリート射座が4基残っています。
この射撃場は的までの距離が80mほどで、近距離での射撃訓練をしたと考えられます。的や監的壕は未調査です。
この射撃場の西北100mには建物のコンクリート基礎も残っていて、基礎の近くから陸軍の境界石柱も1本確認されています。
1941年に鈴鹿市石薬師町(当時は石薬師村)に作られた陸軍第一気象連隊。その戦争遺跡はほとんど残っていませんが、近くに作られた射撃場は銃座などが良く残っています。
コンクリート製の銃座は8基でほぼ完存しています。銃座から約300m離れた位置に的を設置したコンクリート基礎と監的壕も残っていますが、戦後畑地にされた時に埋められたので一部しか見ることはできません。
的のコンクリート基礎には金具の跡がありますが、どのように的を設置したのかは不明です。監的壕はコンクリートの三面張りで、西側の一部だけが露出しています。
射撃場としては、全域が残っている県内でも唯一の戦争遺跡です。的付近は雑木の多い湿地帯ですので、冬以外に立入ることは避けて下さい。
陸軍第一気象連隊の北に隣接する傾斜地にコの字型の地下壕が1本あります。入り口から奥までの長さが10m、内部が11m、高さ2mの壕です。内部は一部で崩落していますが、保存状態は良好です。
地下壕の規模や場所から、民間防空壕ではなく、第一気象連隊による地下壕だと考えられます。地下壕の南に将校集会室があったので、将校用の防空壕の可能性もあります。
鈴鹿市国分町の菅原神社北西の丘陵上に軍施設のコンクリート基礎の一部が残っています。
この施設のある場所は志摩半島から四日市方面まで見渡すことのできる眺望の良い場所です。
地元の方によると、この施設は軍隊が使用していた比較的大きな建物で、施設内に便所もあったということです。
陸軍か海軍か、どのような施設だったのかなど、詳しいことはわかっていません。
なお、菅原神社の第二駐車場の場所には1~2本の地下壕があり、そのうち1本はJ型をしていたそうです。コンクリート基礎との関連も考えられます。
鈴鹿市国分町の道路沿いに3つの穴が並んでいます。
北、中央、南の3つの穴のうち、南の穴が比較的よく開いていますが、それでも内部に入ることは困難です。もともとはどの穴も髙さ1.2mぐらいはあったようですが、崩落が進んでいます。
内部の状況は不明ですが、北と中央の穴がコの字型になっていて、南の穴とは別のようです。
戦後すぐの時期からこの3つの穴があったそうです。紀北町東長島片上の民間防空壕にもよく似ています。
鈴鹿市中冨田の山地区に、コの字型の民間防空壕が1本残っています。この防空壕は山地区にお住まいだった方(故人)がお一人で掘られ、近所の方が一緒に入ったそうです。
地下壕入り口から奥までは5.5m、東西の長さは13.7mでほぼ完存していますが、西側の入り口は意図的に廃棄物で塞がれています。集落から道を上がってくると地下壕が見えるために、子どもたちが入らないように塞いだそうですが、土などを除去すれば、すぐに復元できそうです。
とても保存状態の良い民間防空壕です。
民家北側の山林に1本が現存しています。全長約8m。内部でゆるやかに曲がり、東側と北側に貫通しています。
今は残っていませんが、壕の南側にも防空壕が掘られていたそうです。
鈴鹿市国府町北一色の丘陵斜面に3つの穴が開いています。中央の穴が防空壕の入り口で、内部は十字型です。左の穴は十字型の壕の天井が崩落したものです。右の穴は、十字型とは別の壕でごく浅いものです。
十字型地下壕は奥行5m、左右の長さ6.5mで、高さは1.2mです。
十字型の壕は、天井の一部が崩落していますが、非常に良く残っていて貴重です。
この斜面の前に、当時は民家があり、その家の方が掘った防空壕だとわかっています。
川崎小学校の西にコンクリート倉庫が1棟残っています。飛行場敷地の西端部に当たり、当時の図面には油庫と記載されていますが、地域では食糧倉庫と伝えられ、隣接して炊事場があったと言われています。
コンクリート倉庫の南にも同様のコンクリート倉庫がありましたが、造成工事で消滅しました。また、北にもコンクリート倉庫があったそうです。
コンクリート倉庫近くの畑には、コンクリート基礎が良く残っていて、当時の図面で発動機整備場だと考えられます。その北にも別の建物のコンクリート基礎が一部残っていて、修理工場の跡だと考えられます。
排水溝の長さは500m近くあり、上部につけられたコンクリートのふたも重厚です。排水溝と格納庫の間もコンクリート舗装され、練習機の待機場と考えられます。
北伊勢飛行場には格納庫が9棟並んで作られましたが、格納庫群の北側に作られた排水溝がほぼ完全に残っています。
亀山市三寺町の山裾に全長約22mの地下壕が現存します。壕の東側に地下壕の痕跡が2ヶ所ありますが、地域の方によると深い壕は1本だけで、残りは掘りかけだったそうです。
三寺町のお寺に海軍が駐屯し、トラックで魚雷を何度も運び、スクリューなどの検査をしていたそうです。
この地下壕も魚雷を隠すために掘られましたが、未完成のまま敗戦を迎えました。
弘法寺の山中にY字型の地下壕が残っています。東西に約30mの地下壕が貫通していましたが、現在は東側入り口は崩落しています。西側入り口から入ってすぐ北側に約30mの地下壕が作られています。
この地下壕周辺で海軍の部隊がトロッコを使って地下壕を掘っていて、近くにL字型をした地下壕があったこともわかっています。また、別の場所でも地下壕の痕跡と考えられるものもあります。トロッコの軌道が道路として使われている所もあります。
海軍が何を保管するために地下壕を掘っていたのかは不明です。
海軍の部隊は弘法寺の民家に分宿していました。戦後、トロッコのレールは弘法寺地区に運んで再利用しましたが、1本だけ現存しているのは貴重です。
JR下庄駅から南に伸びる谷に、南北に貫通する地下壕が残っています。地下壕は全長53mで、南入り口は崩落していますが、内部はほぼ完存していて貴重です。
この地下壕は弘法寺の地下壕からも近いので、海軍が掘った可能性が高いですが詳細不明です。
この地下壕の近くに朝鮮人労働者の飯場があり、飯場の子どもたちが地域の小学校の教室に入りきれず、廊下で学習していたという証言もあります。
朝鮮人労働者と地下壕の関連性が考えられます。
民家の裏の山裾に深さ3mほどの防空壕が完存しています。奥には椅子状のものもあります。防空壕の隣には、掘りかけて止めたくぼみも残っています。
この防空壕を所有されている方はうどん屋さんを経営されているので、営業時間内なら防空壕の見学が可能です。
白木町の丘陵は掘りやすく崩れにくい土質なので、近くにもL字型の民間防空壕が残っています。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。