満蒙開拓

 三重県からも多くの方が、国の方針に従って満蒙開拓団として中国東北部に渡りました。また、子どもたちで編成された満蒙開拓青少年義勇隊も茨城県で訓練をした後、中国東北部に送られました。敗戦後、国の保護もなく見捨てられた方たちは悲惨な状況の中、多くの犠牲者を出し、「中国残留孤児」「中国残留婦人」などの課題を残しています。


拓魂碑と「三重日輪兵舎」(多気郡大台町弥起井)

拓魂碑(左奥)と「三重日輪兵舎」(右手前)
拓魂碑(左奥)と「三重日輪兵舎」(右手前)

 三重で最も多くの満蒙開拓団を出した多気郡と度会郡。宮川ダムの左岸にある広場に拓魂碑と「三重日輪兵舎」があります。

 拓魂碑は1969年に建てられ、満蒙開拓団や満蒙青少年義勇軍で犠牲になった1500余名を追悼しています。

「三重日輪兵舎」は1973年に建てられました。日輪兵舎とは青少年義勇隊が最初に訓練した茨城県の内原などにあった兵舎です。その形を模して作られています。内部には写真や実物資料が展示され、開拓団員名簿が時計回りに、義勇隊員名簿が反時計回りに掲げられています。建物の老朽化が進み、修復または新資料館の建設が望まれます。