海軍は志摩半島に、船による特攻をするための基地を10ヶ所、他の関連施設も多く造りました。
特攻のために回天、震洋、海竜、蛟竜が配備される予定でしたが、物資不足のために実際には震洋が48隻配備されただけで敗戦を迎えました。
しかし、基地はほぼ完成し、今も多くの戦争遺跡が残っています。
少しずつ更新します。
最終更新は2021年5月27日です。
第13突撃隊は、本部を鳥羽の日和山にある御木本幸吉邸に置き、鳥羽に1ヶ所、答志島に3ヶ所、知多半島の大井と浜名湖西岸の新所原に各1ヶ所の基地がありました。このうち、鳥羽の加布良古(かぶらこ)基地には震洋が配備されましたが、残りの基地には予定されていた回天、蛟竜、震洋は未配備で敗戦になりました。
加布良古(かぶらこ)神社は志摩の一宮で、戦争中は弾除け神社としても信仰されましたが、神社のある岬の北岸に加布良古基地があります。2本の谷に20本を越える地下壕が掘られ、現在も14本が残っています。特に格納壕⑥と居住壕⑩の内部にはまだ坑木が残っていて大変貴重です。また、東側の谷の中央に廃土を使って土塁状の遺構が作られており、石垣など中世の城館のような景観を見ることができます。当時は夜でも土塁の上を走れたそうです。
1945年7月に第60震洋隊(170人)が配備されましたが、震洋は1隻もありませんでした。隊長自ら横須賀鎮守府で交渉し、最後は青森県大湊に行き製造中の震洋48隻を手に入れたそうです。一度も出撃することなく敗戦を迎えました。
基地東側の尾根には、隊員の野営地と考えられる平坦地が残り、瓶などの遺物も採集されています。
基地へは加布良古神社の駐車用広場(使用には許可が必要です)から北に伸びる参道を下り、途中から西に下るのが最も行きやすいコースですが、参道からは道はありませんので注意が必要です。基地周辺にはマムシも生息しています。
細長い離島である答志島の南岸には海軍の特攻基地が3ヶ所あります。島ヶ崎基地は答志島西部の桃取地区にあります。少なくとも1945年1月には工事が始まっていて、予科練習生が学校や旅館、民家に分宿していました。徴用された年配の人もいました。
東の谷には9本の地下壕が造られ、戦後造られたホテル(現在廃業)近くに4本が部分的に残っています。工作室用地下壕⑩はほぼ完存しています。
西の谷には4本の地下壕が造られ、調整場用地下壕⑬⑭と糧食庫用地下壕⑮の一部が残っています。また、地下壕の堀った時の残土を盛り上げて、特殊潜航艇「蛟竜」のための斜路(スロープ)を造り、一部だけ見ることができます。
島ヶ崎基地は廃業したホテルが目印になるので、和具行きの連絡船からも位置を確認できますが、桃取地区からの陸路ではなかなか行くことが難しく、船が必要です。また、特に西の谷はマムシが多いので注意が必要です。
大崎基地は答志島南岸の中央部にあります。7本の地下壕が造られ、4本が現存しています。特に格納壕⑦は長さが30mを越え、内部には当時のものと考えられる坑木が残り、坑木にはかすがいのついているものもあります。またポンプ室用地下壕③はL字型の地下壕で、岩盤を削って作ってあるためにほぼ完全な形で残っています。南側の入り口を出た所には石組みがきれいに残っています。
大崎基地までは答志地区から基地近くにあった伊勢防備隊答志受信所まで「海軍道路」と呼ばれる道がついていますが、受信所から先400mは道がない上に「弁当を食べながらマムシを12本殺した」という話があるほどマムシが多いので、陸路は注意が必要です。基地周辺にもマムシが多いので、船で行く時にも注意して下さい。
和具基地は答志島東部にあります。他の2ヶ所と違って和具港に隣接して作られています。5本の地下壕が造られましたが、1本のみ残っています。戦後の開発により基地の周辺もかなり状況が変わっています。
格納壕③は長さ29mで、入り口と中央部が大きく崩落しています。中には坑木が残っています
内部に入るのは危険なので注意が必要ですし、地下壕に近づくには民間の建物を通る必要があるので許可が必要です。
第19突撃隊は、本部を的矢湾に浮かぶ渡鹿野島(志摩市磯部町)の旅館「福寿荘」に置き、大きく分けて的矢基地、英虞基地、五ヶ所基地の3つがありました。本部に近い三ケ所地区(志摩市磯部町)には送受信所を作り戦闘指揮所も兼ねていました。特攻基地は的矢基地に3ヶ所、英虞基地に1ヶ所、五ヶ所基地に2ヶ所あり、合わせて6ヶ所も造られましたが、これらの基地に配備された特攻艇はありませんでした。
金着浦基地は本部である渡鹿野島の対岸にあり、的矢基地3ヶ所の中でも中心になる基地です。規模も大きく当時の施設図によると20本を越える地下壕が造られていて、現在は4本が現存しています。
またウィンチ室のコンクリート壁もコの字型に残っていて、そこから海岸に向けて斜路用の土盛りも現存しています。
丘陵上の分譲地から降りると近いですが、下り口がわかりにくい上に現地は草木が繁茂していますので注意が必要です。
合歓の郷のゴルフ場近くの、鴻の浦に面して潜航艇「蛟竜(こうりゅう)」の基地が造られました。
蛟竜の格納壕や居住壕は素掘りの壕が多いために、現在ではほとんど崩落して、痕跡を残すのみとなっていますが、コンクリートで作られた発電機室用の地下壕は完存しています。
またウィンチ室につながる土塁もわずかに残っています。
発電機室用地下壕の入り口には「第十一号」という文字が残されています。当時海軍が作った施設図にもこの地下壕は11号と書かれていて一致しています。志摩半島の特攻基地で、文字を残しているのはここだけです。
また近くにはコンクリート水槽も残っています。
この基地は約200人の海軍の陸戦隊が掘ったという証言、ウィンチにつながる線路の下は石畳になっていたという証言、魚雷が置いてあったという証言があります。
五ヶ所基地は迫間基地とソモ崎基地の2ヶ所があります。
迫間基地は当時の施設図によると25本の地下壕が造られ、そのうち6本が現存しています。中でも、格納壕㉕は長さ30m、高さ4.8mもあり、三重県内では最大規模の地下壕で、保存状態もよく歴史的価値も高いと考えられます。壕の奥には手すりつきのコンクリート壁が造られているのも特徴的です。隣にある格納壕㉔は工事途中の姿で残り、壕の掘る手順がよくわかります。
また、発電機室であった地下壕⑱の入り口はコンクリートに格子模様の装飾がされています。内部には発電機を設置するためのボルトや天井部の吊り金が残っています。
弾薬庫として掘られた地下壕⑯は現在コの字型で残り、南側入り口は崩落により入りにくくなっていますが、ほぼ完存しています。
迫間基地は陸路で行くのは困難で、見学には船が必要です。
なお、三重海軍航空隊跡地にある津市香良洲歴史資料館(旧・若桜会館)には、1945年4月から迫間基地の地下壕を掘られた海軍予科練習生の方の回顧録が保管されていて貴重です。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。