鈴鹿市は1942年に軍都として誕生しましたが、この地域に一番早く、1938年に造られたのが鈴鹿海軍航空隊です。海軍の航空機搭乗員(通信や気象などの偵察要員)を養成しましたが、1945年2月で教育施設ではなくなり、「鈴鹿海軍第一航空基地」として実戦部隊になります。
3棟のすばらしい格納庫など多くの戦争遺跡が残っていましたが、市民の保存運動も実らず、開発により破壊されました。
正門と番兵塔は保存されましたが、どちらも原位置から移動し、配置も変わっているので注意が必要です。鈴鹿市が設置した説明板の記述にも違和感をもつ部分が多く、修正する必要を感じます。
鈴鹿海軍航空隊には5棟の格納庫が造られ、そのうち第3~5格納庫の3棟が現存していました。
しかし再開発により、保存を求める市民運動も実らず2011年に破壊されました。
ごく一部の部材は市民の協力により保管されており、希望者に公開されています。
なお、早期に撤去された2棟のうち1棟は近畿日本鉄道の塩浜駅に移築され、現在も使用されています。
2023年10月に、宅地造成工事で円形水槽が地下から出土しました。当時の航空写真などで存在は知られていましたが、初めて実物が確認できました。
コンクリート製の水槽は内径が10m、深さ1mで、ほぼ完全に残っていましたが、十分な記録保存も行なわれぬまま、工事により消滅しました。
付近にはあと二つ同型の円形水槽がありましたが、今回の工事では出土しませんでした。
鈴鹿海軍航空隊は1945年3月1日に本土戦に向けて第一鈴鹿海軍航空基地になります。本土戦に備えて、滑走路の周りに飛行機を隠す掩体を作り、滑走路と掩体を誘導路で結びました。
周囲には防御用の砲台が作られ、高角砲が3ヶ所、25mm機銃が6ヶ所に据えられていました。
ほとんどが戦後の開発で消滅しましたが、第二機銃砲台のコンクリート製弾薬庫1棟が残っています。
鈴鹿海軍航空隊の北側に、予科練習生の飛行練習や近くの三菱で製造・整備された海軍機輸送のために滑走路が作られたのは1942年。それが本土戦準備のため1945年に第二鈴鹿海軍航空基地になります。
滑走路跡は工場や商業地になっていますが、レンガ倉庫2棟が南玉垣町に残っています。
レンガ倉庫②は南側の壁面がよくわかります。内部は改装されているそうです。現在も居住されているので、見学には所有者の許可が必要です。レンガ倉庫②の南側には巨大なコンクリート貯水槽が残っていたそうですが、現在は開発で消滅しています
レンガ倉庫①は、南側の壁面の他はほぼ完存しています。現在は民家とつながっているため、内部の見学は所有者の許可が必要です。
三菱重工業(株)名古屋航空機製作所は日本軍用機の中心メーカーで、1941年に鈴鹿工場(現・東玉垣町)と鈴鹿整備工場(現・南玉垣町)を作ります。戦争末期には、稲生村(現・鈴鹿市稲生町)に疎開工場も作っています。
現在の鈴鹿市東玉垣町に建てられた三菱重工業鈴鹿工場「最終組立工場」の北側壁面のコンクリート基礎が、鈴鹿市立千代崎中学校の自転車置き場近くに残っています。最終組み立て工場の東西の長さは198mと推定されますが、残っているのはその一部の約80mです。
鈴鹿工場の敷地は広大で、千代崎中学校もその一部ですが、現存している戦争遺跡は今の所、このコンクリート基礎だけです。
鈴鹿工場と、その西に作られた三菱重工業鈴鹿整備工場などは引き込み線でつながっていました。
その線路跡が、現在は道路になって残っています。
この近くには鈴鹿海軍航空隊なども密集していて、当時も軍産複合体になっていたことがよくわかります。
サーキット道路沿いの畑地にコンクリートの基礎が2本見えます。これは三菱重工業鈴鹿工場の疎開工場2棟の跡です。
基礎から推定される規模は、東側の第一工場が東西31ⅿ、南北18ⅿ。西側の第二工場が東西25ⅿ、南北18ⅿです。南に面した丘陵には、コンプレッサー用倉庫や便所を作ったと考えられる平坦地も残っています。また、丘陵東端の福祉施設の駐車場にはコンクリート面が残り、疎開工場の一部と考えられます。
さらに南方の伊奈富神社北方にも平坦地が残り、第三、第四工場が建てられていたことが資料から判明しています。
これらの工場で作られていた部品は、今のところ不明です。
コンクリート基礎には斜めに溝が掘られ、ドーム状の天井が造られていたと想定されます。これに対応するように山裾にもコンクリート基礎が造られています。
鈴鹿海軍工廠は1943(昭和18)年4月1日に開廠し、主に二式13ミリ旋回機銃とその弾を作りました。銃を作った部署が機銃部、弾を作った部署が火工部でした。
敷地面積281.3万㎡、建物面積38万㎡という広大な敷地をもち、戦後は跡地に本田技研鈴鹿工場、旭化成鈴鹿製造所、イオンモール鈴鹿、鈴鹿サーキットなどがつくられ、戦後の発展の礎になりました。
また、鈴鹿海軍工廠の建設主任が中心となって、周辺の2町10か村を合併して鈴鹿市ができました。鈴鹿市は、日本で初めて軍によって誕生した市で、まさに軍都でした。
鈴鹿海軍工廠の戦争遺跡は巨大なものも含めてたくさん残っています。特に平野町には工場群が面的に残されていて注目されます。
鈴鹿海軍工廠の中心部は大企業が誘致されたために戦争遺跡はほとんど残っていませんが、鈴鹿市平野町の一角だけは本田技研鈴鹿工場が買収をしなかったので残りました。
この一画には戦後の開拓団である「石丸開拓団」が工場の施設を利用してすでに生活していたので、本田技研は買収を避けたそうです。本田技研は水田や居住地を潰さないようにしたと言われています。
そのため、この一画には弾を製造していた火工部のコンクリート製の工場跡が5棟、小規模の倉庫が3棟残っていて、工場群として面的に残っているのは大変貴重です。
どの建物も個人の所有ですので、見学には許可が必要です。私有地への立ち入りにはご注意下さい。
上の写真は工場跡です。2階は戦後にアパートとして転用された時のものですが、コンクリートの建物の大半が残っています。当時は下のような建物でした。
この建物の他にも、火工部の工場を基礎にして建てられている建物が4棟あります。家屋や倉庫の中にコンクリート製の工場が残っています。
また、大きな工場の周囲には小規模の倉庫も作られていて、そのうちの3棟が現存しています。
戦争当時の工場群を見られるのは、三重県ではここだけで大変貴重です。ぜひ面的な保存を望みたいです。
鈴鹿市を代表する戦争遺跡の一つです。鈴鹿市住吉町の奈良池西方には、鈴鹿海軍工廠で生産された機銃を試射する「山の手発射場」と言われる施設がありました。試射の的として造られたのが着弾場です。
コンクリート製で内径12m、高さは7mです。
現在はリサイクル工場の所有になり、大切に保存されています。工場敷地内に立ち入る時は許可が必要ですが、隣接するモトクロス練習場から全容を見ることができます。
当時は内部に土を盛ってあり、土に弾がめり込むようになっていました。その土は2005年頃まで残っていて(左写真)、土の中から弾を採集することもできましたが、現在は撤去されています。
西側側面は近くで見ることもできます。戦後に鉄が高く売れたので、鉄骨を取った跡がたくさん残っています。コンクリートの質が下部と上部で違うこともよくわかり、二段構造で造られたこともわかります。
山の手発射場に関係する火薬庫が、奈良池の北岸に2棟残っていて、どちらも頑丈なコンクリート製です。池の畔に造られたのは火災の時に水を使えるように考えたためでしょう。
東側の火薬庫は住吉神社のある丘陵に掘り込まれるように造られています。周囲をフェンスで遮蔽されているので近づくことはできません。内部構造も不明です。
建物の内部には両側に溝が造られ、コンクリートで仕切られています。何かを貯蔵するためと考えられますが、工廠の頃のものか、戦後のものかは不明です。
西側の火薬庫は建物の構造をよく見ることができます。東西15m、南北22mの建物で、天井には事故の時の衝撃を逃がすための通風孔がついています。
建物の上部には土をかぶせていた形跡もありますが、空から見えにくくする擬装なのか、東側の火薬庫のように半地下式にするためかは不明です。
火薬庫として造られましたが、生活物資を保管していたという証言もあり、物資倉庫として使われていた時期もあるようです。奈良池周辺は大規模な戦争遺跡が集中するので貴重です。
2010年の平田送水場の改修に伴う平田遺跡の調査の時に出土しました。
コンクリート製の水槽で、内部はアーチ構造になっていて、亀山市関町に残っている鈴鹿海軍工廠・関防空工場のコンクリート水槽に似ています。
発掘調査後に埋め戻されていますので、現在は見ることができませんが、地中に残っています。
なお、鈴鹿市考古博物館が2013年に発刊された『平田遺跡発掘調査報告書(第19次、第22次)』の144ページ~146ページに水槽についての記述があり、図面も掲載されています。近代の遺構についても詳細に調査報告をされているのが嬉しいです。
鈴鹿海軍工廠の正門についていた銘板が大池公園に移設展示されています。
海軍工廠の正門は、現在のイオンモール鈴鹿近くの共進交差点にありました。敗戦直後にアメリカ軍が銘板を破壊しようとした時、海軍工廠機銃部の方が交渉して銘板を引き取り保管されました。
運ぶ時にコンクリートが崩れるので苦労されたそうです。
本土戦に備え、陸軍は特攻用の鈴鹿飛行場を今の鈴鹿インター付近に造りました。「椿秘匿(つばきひとく)飛行場」「追分飛行場」などとも呼ばれています。
十字型の滑走路の周りに飛行機を運ぶ誘導路が造られ、誘導路沿いに飛行機を隠すための土製の掩体(えんたい)が約70個造られていました。
土製掩体は鈴鹿市長沢町、山本新田、四日市市水沢野田町の森の中などに、今も11個が残っています。画像は長瀬神社駐車場横(鈴鹿市長沢町)に残る土製掩体です。
前述の陸軍鈴鹿飛行場には、飛行機を隠すためのコンクリート製の掩体も1個残っています。
コンクリート製の掩体は全国に約100個残っていますが三重県にはこれしかなく、国の登録文化財になっています。他の掩体と比べて庇(ひさし)ついているのが特徴です。掩体の上には工事中についた足跡も残っています。
この掩体は未完成のまま敗戦を迎えますが、鈴鹿飛行場の滑走路から少し離れた所にあり、補修や整備を担当するエリアがこの周辺に造られていたと考えられます。
すぐ近くには朝鮮人労働者の宿舎もありました。
陸軍のパイロットを養成するために1941年に造られた北伊勢飛行場は、1944年になると学校ではなく実戦部隊になり特攻訓練にも使われました。
格納庫のコンクリート基礎が残るほか、司令部跡地に建てられた川崎小学校内には当時の門が残っています。また亀山市川崎町の一色地区の公民館は兵舎を移築したものです。画像は亀山市能褒野町に残っている格納庫のコンクリート基礎です。
鈴鹿市広瀬町では、飛行場の境界石柱、墜落した飛行機の機体片などが保存されています。
1941年に鈴鹿市石薬師町(当時は石薬師村)に作られた陸軍第一気象連隊。その本部は東南隅にありました。
陸軍の本部前には、防火用水を兼ねた円型池が作られますが、そのコンクリート壁の4分の1ほどが残っています。
また、本部の東側に建てられていた気象観測所のコンクリート基礎も残っています。現在は、畑の下になっていて見ることはできませんが、畑を耕すためにトラクターを入れると、コンクリートに当たってトラクターの刃が曲がって仕事にならないそうです。畑の所有者によると、コンクリート基礎を割ろうとしたものの難しいので、上に土を盛って畑にしたそうです。
山辺町には第一気象連隊の射撃場のコンクリート射座が4基残っています。
この射撃場は的までの距離が80mほどで、近距離での射撃訓練をしたと考えられます。的や監的壕は未調査です。
この射撃場の西北100mには建物のコンクリート基礎も残っていて、基礎の近くから陸軍の境界石柱も1本確認されています。
陸軍第一気象連隊の西1kmの谷に作られた射撃場は、山辺町の射撃場の4倍ほどの規模があり、全体の遺構が残っていて大変貴重です。
コンクリート製の銃座は8基でほぼ完存しています。銃座から約300m離れた位置に的を設置したコンクリート基礎と監的壕も残っていますが、戦後畑地にされた時に埋められたので一部しか見ることはできません。的の背後に作られた土塁も一部が残ってます。
的のコンクリート基礎には金具の跡がありますが、どのように的を設置したのかは不明です。監的壕はコンクリートの三面張りで、西側の一部だけが露出しています。
射撃場としては、全域が残っている県内でも唯一の戦争遺跡です。的付近は雑木の多い湿地帯ですので、冬以外は立入ることを避けて下さい。
陸軍第一気象連隊の北に隣接する傾斜地にコの字型の地下壕が1本あります。入り口から奥までの長さが10m、内部が11m、高さ2mの壕です。内部は一部で崩落していますが、保存状態は良好です。
地下壕の規模や場所から、民間防空壕ではなく、第一気象連隊による地下壕だと考えられます。地下壕の南に将校集会室があったので、将校用の防空壕の可能性もあります。
陸軍第一航空軍教育隊は1942年12月3日に開隊し、組織改編により中部第132部隊、東海帥581部隊と名称を変えています。主な任務は陸軍航空兵の下士官や幹部候補生の養成でした。
ここで講義や訓練を受け、飛行訓練は近くの陸軍北伊勢飛行場を利用しました。
戦後に跡地は開拓団に払い下げられ、1970年頃に南半分はモータープール、さらに住宅地(レイクタウン)として使われました。北半分には当時の建物のコンクリート基礎などが多く残っていましたが、最近の開発により次第に少なくなっています。
その中で弾薬庫は、周囲の盛り土はなくなりつつありますが、コンクリート製建物は完存しています。
鈴鹿市国分町の道路沿いに3つの穴が並んでいます。
北、中央、南の3つの穴のうち、南の穴が比較的よく開いていますが、それでも内部に入ることは困難です。もともとはどの穴も髙さ1.2mぐらいはあったようですが、崩落が進んでいます。
内部の状況は不明ですが、北と中央の穴がコの字型になっていて、南の穴とは別のようです。
戦後すぐの時期からこの3つの穴があったそうです。紀北町東長島片上の民間防空壕にもよく似ています。
鈴鹿市中冨田の山地区に、コの字型の民間防空壕が1本残っています。この防空壕は山地区にお住まいだった方(故人)がお一人で掘られ、近所の方が一緒に入ったそうです。
地下壕入り口から奥までは5.5m、東西の長さは13.7mでほぼ完存していますが、西側の入り口は意図的に廃棄物で塞がれています。集落から道を上がってくると地下壕が見えるために、子どもたちが入らないように塞いだそうですが、土などを除去すれば、すぐに復元できそうです。
とても保存状態の良い民間防空壕です。
民家北側の山林に1本が現存しています。全長約8m。内部でゆるやかに曲がり、東側と北側に貫通しています。
今は残っていませんが、壕の南側にも防空壕が掘られていたそうです。
鈴鹿市国府町北一色の丘陵斜面に3つの穴が開いています。中央の穴が防空壕の入り口で、内部は十字型です。左の穴は十字型の壕の天井が崩落したものです。右の穴は、十字型とは別の壕でごく浅いものです。
十字型地下壕は奥行5m、左右の長さ6.5mで、高さは1.2mです。
十字型の壕は、天井の一部が崩落していますが、非常に良く残っていて貴重です。
この斜面の前に、当時は民家があり、その家の方が掘った防空壕だとわかっています。
鈴鹿市国分町の菅原神社北西の丘陵上に軍施設のコンクリート基礎の一部が残っています。
この施設のある場所は志摩半島から四日市方面まで見渡すことのできる眺望の良い場所です。
地元の方によると、この施設は軍隊が使用していた比較的大きな建物で、施設内に便所もあったということです。
陸軍か海軍か、どのような施設だったのかなど、詳しいことはわかっていません。
なお、菅原神社の第二駐車場の場所には1~2本の地下壕があり、そのうち1本はJ型をしていたそうです。コンクリート基礎との関連も考えられます。
樹齢が長く大変貴重な巨木なので、1996年に三重県の指定文化財(天然記念物)に指定されました。
戦争中、すぐ近くに第二鈴鹿海軍航空隊が造られ、軍用機の離着陸の邪魔になるために伐採されることになりましたが、着手後に飛行機が3機墜落したり、担当官が急病になったりしたため、作業が中止になったそうで、地域では「海軍に勝った松」と伝承されています。
戦争遺跡ではありませんが、戦争に関わる民話をもつ巨木です。
『三重の戦争遺跡(増補改訂版)』(2006年 三重県歴史教育者協議会 つむぎ出版)
三重県の戦争遺跡について写真や地図を豊富に使って解説しました。「空襲年表」や「三重に墜落したアメリカ軍機一覧」など多くの資料も掲載しています。A4版で314ページ。持ち運ぶのに重いのが難点ですが、地域の戦争遺跡を知るガイドブックとして活用して頂ければと願っています。
すでに出版社ルートでの販売は終了し、残部を高村書店(三重県亀山市東町。電話0595-82-0414)で販売して頂いていましたが、それも24年2月9日で完売しました。県内から残部が出てきましたら、お知らせします。